従姉妹 | 甲状腺癌摘出手術から放射線治療を受け障害者になりました

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今年始めから


1人しかいない従姉妹と文通を始めてる。


Mail✉ ͗ ͗でもなく、LINEでもなく


手紙でのやり取りだ。


この、お互いの距離感


なんとなく、お解り頂けるだろうか・・・


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 |⌒彡 

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私が小学生のコロに数回家に遊びに来て


私はあちらの家に2回程お泊まりした。


そのぐらいしか出会っていない関係。


そんな関係の私と彼女が文通なんて始めたのか?


去年、彼女が私の母に

「 私に渡して」と御守りを買ってくれた


私の知らないところで

母と彼女は、交流があったみたいで

母からその御守りと経緯が送られてきて、

「御礼の手紙をだして」と住所が書いてあった。


丁度12月だったので、

年賀状に御礼を添えて出した。


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そして手紙のやり取りが始まった。


彼女は10代の頃から酷い鬱になり

もう何十年も病院に通っている


自分の母親が原因


解る気がした

私も 彼女の母親が苦手だった……


私は、父親から逃げ隠れしながら育ち

彼女は、母親から逃げれずにいた


お互い、そんなこととは知らないまま

生きてきた。

今は、お互い、あの頃に話せていたら

今が違っていたかもしれない

今、お互いが幼少期のことを書くことでが

小さい頃の壊れたパーツを修復していってる気がする。



私の壊れているパーツ


父親の酒癖の悪さに怯え

親に遊んでもらった記憶がなく

「家族団欒」が無い

正直、今でも私にはそれが出来ない。


祖父も祖母も自分の娘が産んだ障害者の孫に会いに行ったことがなく、母以外

妹達の面倒を看る人がいなかった。


母が妹達に付きっきりなので

私は祖母に

保育園のお迎えや夜ご飯を作ってもらっていた。


家では誰もが「無関心」であり「他人事」

であり「助け合う」事が無い。


その考えは私にも受け継がれ

私は何も思わなくて良い。

それが当たり前であった。


父親は家に金を一切入れなかった。

祖父母も支払いごとは母に擦り付けていた

小さい頃から貧乏だった

見栄っ張りの貧乏だった。


お金が減る事が怖く思え

働けるだけ働いた。

自分の子供が困らないように……

だけど、それは

子供に時間を割けなくなった。

愛情の注ぎ方も分からないのに

子供との時間も作らない親が、

子供から好かれるはずもなく………


当たり前の結果で……今、私は独り……


 

 


私は

父親みたいにならないように……と願った


従姉妹は

母親みたいに絶対ならない……と誓った



あの頃の私たちに伝えれたら……と想う


傍に話しができる従姉妹がいるよと。



まったく違う未来があっただろう


いくら考えても

戻ることは出来ない

無かったことには出来ない


それが生きていくということだから