「当業者」の「英訳語」について考える(5) | 特許翻訳 A to Z

特許翻訳 A to Z

1992年5月から、フリーランスで特許翻訳者をしています。

前回、「当業者」の解釈は国ごとに違いがあることを示しました。
AIPPIでは「person」「skills」「technical field」という3つの側面から検討していましたが、翻訳者の立場で重要なのは、personでしょう。

単数で「not a group of people.」だと言い切っている国もあれば、原則として単数で場合によっては複数という国、単数または複数という国があります。
仮想/現実については、多くは「仮想」としています。

さて。
このAIPPIの「投げかけ」は、前回も書いたように、

The person skilled in the art in the context of the inventive step requirement in patent law
です。
これに対して各国が、自国の事情を答えています。

それは裏を返すと、少なくとも「person skilled in the art」と言えば、条文等との関連で使われる「当業者」の意味で各国が理解できる、ということになると思います。
いわば、各国の「共通語」ですね。

ためしに、世界198ヵ国の知的財産関連法規、施行規則、審査基準などのデータベースで、連載1回目に辞書や用語集から拾った「当業者」の「英訳語」を全文検索してみました。

以下、データベースに収録された法律、施行規則、審査基準などを、まとめて「法令等」とします。
公用語が英語以外の国では、英語版での結果になります。
 

【person having ordinary skill in the art】
米国、スイス、ブータン、トンガ、リベリア、ガーナなど、多数の国の法令等でヒットします。

【one/those of ordinary skill in the art】 
今回の検索では、「one of~」と「those of」のどちらも米国だけでヒットします。

【ordinary skill in the art】
ウガンダ、ルワンダ、エチオピアの法令等にも若干の使用例がありますが、実質的に、ほぼ米国だけの言い回しに近いです。

【person skilled in the art】
この表現が、最もヒット数が多いです。
person having ordinary skill in the art と比較しても、3倍近い数字になりました。

【skilled person】
主にオーストラリアで使われています。ただし数は少ないです。
他は、シンガポールやスリランカなど。

【skilled artisan】
米国だけでヒットします。その米国でも、数は少ないです。

【one skilled in the art】
シンガポールの審査基準(Examination Guidelines for Patent Applications at IPOS)に1箇所だけ使われているとはいえ、実質的に米国だけでヒットします。
その米国でも、数は少ないです。

【those having skill in the art】
今回の検索ではヒットゼロでした。
Googleでも実数で52件で、この中には明細書と日本のオンライン辞書が含まれますので、実際には、ほとんど使われないと思われます。

【those in the art】
今回の検索ではヒットゼロでした。
Googleではそこそこ数が出ますが、「The relative skill of those in the art」など「当業者」にskillを使いにくいフレーズも混じっているため、通常の使用場面は限られると思われます。

【those skilled in the art】
米国、シンガポール、ヨルダンなどで、「使われていないわけではない」という程度です。
PCTの「International Search and Preliminary Examination Guidelines」でも、4.23に1箇所出てくるのみです。

調べている過程で、上にあげた以外に
ordinarily skilled artisan(中国)
a person with ordinary skill in the art(日本、韓国)
ordinarily skilled person(インド)
といった表現もありました。


米国や欧州とアジア・アフリカ諸国とでは、データベースに収録されたデータの絶対数が大きく異なり、単純な比較にはならないのですが、それでも
  person skilled in the art

が圧倒的に多いのは間違いありません。
これは、AIPPIがパリ総会で使った表現と、同じです。

欧州の審査基準(Guidelines for Examination)では、第VII章-3に、「Person skilled in the art」という項があります。
PCTの「International Search and Preliminary Examination Guidelines」でも、13.11に「The “Person Skilled in the Art”」という項目があります。
このガイドライン中におけるperson skilled in the artの登場回数は74回です。

以上の諸点から、「当業者」に対応する最も標準的な英語表現は、「person skilled in the art」であると考えて差し支えないと思います。

また、前述のように、単数形で記載しても全体でひとつの「専門用語」として実務上は複数と解釈されることもある語ですので、ほとんどの場面では翻訳者が単複を意識する必要もないでしょう。
原則、単数形で良いと思います。


巷では「当業者」に対応する英訳語がいくつも存在し、どれを使っても同じに見えるかもしれません。
でも、こうしてあらためて検討してみると、表現が割れている原因は、主に米国にあります

日本における外国出願実務や特許翻訳は、長いあいだ米国の方を向いてきましたから、おそらくこうした背景も影響しているのでしょう。

そもそも米国では、たとえば特許法第103条に「person having ordinary skill in the art」、112条に「person skilled in the art」という具合に、条文レベルで表現が使い分けられています。
AIPPIでの回答も、米国だけが異色です。

これに関連して、以前に取り上げた『特許法における当業者の概念』から、一部を抜粋します。

 

米国では、日本の当業者に相当するPHOSITA(person having ordinary skill in the art6)という概念について議論がなされ、そこには我が国で見られない興味深い展開が観察される。

注釈6
後に見るように、米国法におけるPHOSITA概念の内容とそれが置かれているコンテクストには、日本法における当業者概念のそれらとは異なる点もあるが、いずれも概括的な講学上の概念であることから、両者に差異が存在することを認識しつつ、本稿ではPHOSITAについても「当業者」の用語を充てることにする。(p.233)


法学的な視点から見ても、米国における当業者は日本のものとは性質を異にするもののようです。


このことからも、米国主体の言い回しは、「当業者」に対する「英訳語」ではないと言っても過言ではないかもしれません。
少なくとも、翻訳者が安易に使用してよい表現ではないと思います。


「翻訳」をする立場では、特定の国の基準に厳密に合わせる必要がある一部の例外を除いて、おそらく最も安全に使用できるのは、「person skilled in the art」でしょう。
そのことは、諸外国での法令等における使用例などから、明らかです。
状況に応じて表現の違う米国も、共通語としてのperson skilled in the artは、理解するはずです。

​以上をもちまして、今回の「当業者」に対応する英語表現の検討は、終了です。


(完)

 
■関連記事 (連載です)

「当業者」の「英訳語」について考える

「当業者」の「英訳語」について考える(2)

「当業者」の「英訳語」について考える(3)
「当業者」の「英訳語」について考える(4)

「当業者」の「英訳語」について考える(5) ←現在地。
 


インデックスへ