かすかな戦争の記憶を語り継ぐ | 音楽でよろこびの風を

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世間を騒がす夫婦音楽ユニット 相模の風THEめをと風雲録

こんにちは!

よろこび開運掃除の

いしはらとしひろです。

 

今日はお盆の中日であると共に

終戦記念日。

75年目の終戦記念日。

 

すごいなぁ。

終戦の日に生まれた人がもう75歳。

 

なにはともあれ、75年間、

日本が戦争に巻き込まれず、

自らも戦争を起こさず

ここまで来ることができたのは

幸せなことだと思います。

 

もちろん、今

中国や韓国、北朝鮮を巡って

強硬な意見を持つ方も結構いる、

と言うのも承知していますが。

 

また戦後75年を経ても

精神的・経済的にアメリカの影が

色濃く残っているとしても。

 

それはそれとして

素晴らしい達成の一つだと思います。

 

先ほど、終戦の日に生まれた人でも

今75歳、と書きましたが。

 

つまり先の戦争をリアルに知っている人が

どんどん減っていると言うことです。

 

僕の亡くなった父は

戦争を兵隊として体験しています。

 

また、母は昭和20年5月の

横浜大空襲を体験しています。

家を焼かれています。

 

父も母も、まだ小さかった僕に

戦争の時の話を

結構してくれたように思います。

 

 

父は大正14年生まれ。

終戦の年が20歳でした。

 

父は旧満州に住んでいて

彼の地で昭和二十年の

8月に招集されます。

8月5日頃、と言っていましたから

終戦のほんの10日前くらいです。

 

戦闘を経験することなく終戦。

それは良かったのですが、

旧ソ連軍に捕まり、そのまま捕虜となりました。

 

シベリア送りです。

 

極寒の地の捕虜収容所で

3年半過ごしました。

その間収容所で、多くの仲間が

亡くなってしまったそうです。

 

昭和23年の秋に舞鶴港に

戻ってきたそうです。

 

戦争でも捕虜収容所でも

親父さんが死なないでいてくれたおかげで

僕が今こうして生きている。

 

実家に行ってお線香を上げて。

親父さんに感謝を伝えると共に

この75年、戦争は起きていませんよ、

安心してくださいと伝えました。

 

母は今でも空襲に遭ったときの話を

まるでついこの間のことのように

何度も僕に話して聞かせます。

 

横浜大空襲では一晩で

8000人の方が亡くなっています。

一緒に走って逃げていたはずの

となりのおじさんに、

火のついたものが当たって、

そのままおじさんが

火だるまになってしまった。

 

そんな話もしてくれました。

 

母が避難する場所を、

別な防空壕にしていたら

母も僕も今、いないかもしれません。

防空壕ごと火に包まれて

全員亡くなる、

なんてざらだったそうですから。

 

 

好戦的なことを述べられる方に

違和感を

抱くところがあるとすれば。

 

「この人たちは

自分が負ける、とか

空襲だのに合う、とか

占領される

と言うシミュレーションを

まったくしていない」

ように思えるところです。

 

 

僕個人の意見としては

戦争反対、です。

 

平和ボケと言われたら

平和ボケ上等!といっておきましょう。

 

戦争反対、と言うよりも

今現在、まがりなりにも

「平和」な訳ですから

「平和推進」ですね。

 

一人ひとりが、高い意識を持って

日々を過ごすことが必要かと思います。

そして自分の頭でものを考えて

判断することが必要だと思います。

 

「平和推進」していくには

バカすぎたら話にならないし、

ある種の強さ(武力的なことではなく)も

必要です。

 

また戦争を防ぐものとして

外交力と、文化の力はあった方が良い。

 

嗚呼、

自分でもなかなか

いや、全然できていないことを

書いてしまいましたが。

 

父と母の話を聞けた

現代においては希少な話を聞けた僕は

それをちゃんと伝える義務があります。

 

僕は日々 戦争反対!を訴えている

ものではありません。

しょっちゅうそういうことを

考えているわけでもない。

 

でもこの日くらいは心して。

 

戦争のない日々に

ありがとうございます。

 

ピース!

 

 

 

よろこび開運掃除

ハウスクリーニング ライブ

石原敏弘