卯の刻(午前6時頃)に始まった戦は巳の刻(午前10時頃)には終わった。
鎌倉方の圧倒的勝利である。
その後各方面の将たちは勝利の忙しさに追われることになる。

まず勝利の一報を都と鎌倉に送らなくてはならない。

そして大切な任務が待っている。
将たちが最も心して行なわなくてはならないこと。
それは自軍の戦死負傷者、軍律違反の有無、そして各人の功績の確認である。

ここはしくじってはならないことである。
参軍したものは、出陣に関する全てを自分で負担し、自らの命まで賭けて戦に加わるのである。
それはひとえに「恩賞」が欲しい故である。
恩賞は、戦においてどのような功績を立てたかによって決する。
功績の正しい認証が行なわなくては公正な恩賞は与えられない。
ここをしくじると参軍したものの不信を買い、将ひいては彼等を将に認定した鎌倉殿への離反を招くことになる。

源範頼、源義経、安田義定この三人の将の元に兵達が集った。
その多くは兵が多数の首を抱えて表れた。
いずれも兵達が討ち取った敵の首である。

その敵の首の名の確認が行なわれ討ち取った時の状況の検分が行なわれる。
本人の申告する際はその現場の近くにいた味方、そして捕虜となって敵兵が呼ばれその事実が正しいものかの確認が行なわれる。
本人の申告は誇大となったり多少の虚偽が含まれている場合が多々あるからである。
中には一つの首の手柄を同時に主張するものもあり、その裁定に時間を取られるということもあった。

源範頼もその戦勝処理に追われていた。
範頼は鎌倉勢の主力を率いていた。そして敵の主力と戦った。
範頼が担当した生田口において最も規模の大きい交戦が行なわれた。
よって範頼が率いた勢が討ち取った首の数は、名のあるもの無いもの全てを含めると他の二将率いる兵よりもはるかに多い。

範頼とその軍目付梶原景時は夕刻になっても多忙を極めることになる。

日も暮れて、やや遅い夕餉を始めようとした頃、義経が範頼のもとに面会を求めて現れた。
義経は兄の前に現れると即座に口を開いた。
「兄上、私は明日都に向けて出立します。」
「そうか・・・」
「一日も早く都の人々に我が軍の勝利と平家が敗れたことを知らせなくてはなりません。」
「そうだな。」
範頼はその正論に頷く。
義経はそれを見て言葉を続ける。
「ついては、お願いしたいことがありまする。」
義経は声を潜めてさらに言葉を続けた。
「兄上、今宵のうちに平家の主な者達の首を兄上の前に集めてください。
明日私はその首を全て都にもって行きます。それから中将殿(重衡)の御身柄も・・・」

範頼は傍らにいる梶原景時の方をみやった。
景時は満足気にうなずいている。
範頼は義経に了承の意を伝えた。

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色々と一の谷の戦いについて書かせていただきましたが、現時点での私の見解は次の通りです。

a)戦いが行なわれたのは福原全域とその近辺、現在の神戸市中央区から神戸市須磨区(一部垂水区含む)までの広い地域にわたる。

b)福原への交通の要衝となる生田口(中央区)、山手口(長田区、兵庫区の山沿い)、一の谷口(須磨区、垂水区)で、福原への進入とそれを防ぐ攻防戦が行なわれた。

c)有名な「逆落とし」は、「一の谷口」の鉄拐山かその近隣の山で行なわれた。実行者は恐らく「一の谷口の将」源義経。この逆落としは一の谷口の勝敗を決するには大きな意味を持ったかもしれないが、この逆落としがすぐに「福原合戦」そのものの戦局を直ちに左右したわけではない。

d)最初に陥落したのは「山手口」。この軍を率いていたのは源範頼でも源義経でもなく、摂津国の武士のリーダー的存在と見られる多田行綱か、頼朝に対してその頃も独立性を保っていた甲斐源氏安田義定。いずれにせよ頼朝に対しては同盟軍的な存在が真っ先に福原に進入した。

e)それぞれの戦闘は、逆茂木や堀などをしつらえるなど敵の侵入を妨げるバリケード構築する等の事も行なわれた。

f)山手口、一の谷口、生田口は半日もたたないうちに陥落した。

g)山道を通らなければならない山手口、山が海岸線に近くまで張り出している一の谷口は大軍を率いて戦うには向いていない。よって、攻め手寄せ手共に主力は生田口に集結したものと思われる。

h)山手口、一の谷口は地形を生かした「不意の攻撃」をかけることは可能であるが、生田口はあくまでも正攻法による戦いをすることになるのも当然のことと言える。

g)そのような状況を考えると従来考えているようにこの戦いの勝利の功績の多くを源義経を担っていたという通説には賛同しがたい。義経が一の谷口を陥落させたことは事実であり義経はやはり勝利には貢献していた。しかし、他の口の将たちも担当の箇所を陥落させていたのだから、彼等もまた勝利に貢献していた。
そのように考えると、源範頼、源義経、安田義定or多田行綱は殆ど同等の戦功を上げているものとみなすべきである。

以上色々と書かせていただきましたが、「一の谷シリーズ」は以上をもちまして終了させていただきたいと存じます。

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