蒲殿春秋(四百七十八)  5/16 up
義仲の征東大将軍について
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土肥実平はさらに思う。
━━━ 梶原殿の存念が通った。
と。
梶原景時があの夜授けてくれた策の通り、急遽大手大将軍源範頼も入洛させて戦後の院方との折衝の一員に加えた。
戦の状況の奏上や今回の首渡しの折衝は範頼と義経という鎌倉殿源頼朝の二人の異母弟を通して行なうこととなった。
「この戦に勝利したのは鎌倉勢」という印象を都の人々に与えるためである。

この福原の戦いは甲斐源氏の安田義定、畿内の武者達━━院や有力者に近侍している独自の人脈と勢力をもつ武士達━━━
すなわち鎌倉殿の支配下にいな武士達とと鎌倉勢との連合によって行なわれた。
しかし今回の鎌倉殿の二人の弟を大きく前面に出すことによりこの戦いが「鎌倉勢の勝利」という印象をもたれる日が近いであろう。

山手口を攻めた多田行綱の働きは目覚しいものがあった。
実際、この福原の戦いにおいて最初に平家の守りを打ち破ったのは多田行綱と安田義定が率いた山手口であった。
行綱もそれを十分に自負し、また自身院に近い存在であるゆえに自らの手で院に自分の働きを奏上したいとの存念を有していた。
鎌倉方と安田義定はその行綱をなだめた。
その多田行綱をなだめて平家の首を義経のもとに集める際、行綱の働きを別途院に奏上すると約束した。

その奏上は実際に行なわれた。

だが、その行綱の功績の奏上は大手軍大将軍源範頼を通して行なわれた。
行綱の件だけではなく今回の戦に関する全ての報告は源範頼が全て奏上した。
鎌倉殿の支配下にあるものもそうでない者の働きも全て。

結果都の人々には「源範頼が今回の戦の総大将」という印象をもつようになる。
それが今回の戦は鎌倉殿代官源範頼の総指揮に基づいて行なわれ、鎌倉勢の勝利であると人々が思うようになる。

━━ それでよい。
土肥実平はそのように思った。
範頼が全軍の総大将という人々が持つ印象は今後に活きてくるはずである。

一方、その裏で実平は中原親能らの持つ人脈を使って義経が行なったあの「逆落とし」の話を人々の間に広めさせた。
福原への三つの進入口で同時で行なわれた福原の戦い。
その三つの口の一つにしか過ぎない「一の谷」の戦いにおいて行なわれたあの「逆落とし」の戦略は人々の発想を外れた素晴らしいものだった。
人々は奇想天外な戦い方に興味を示すはずである。
それを鎌倉殿の弟が実行したのである。
この話を広めておけば「山手口」の多田行綱や安田義定の働きなど世の中では誰も噂しなくなるはずである。
そして、「鎌倉殿弟源九郎義経」の戦の才の鮮やかさがもてはやされるであろう。
とにかく鎌倉殿の身内やその支配下にある者だけが現在もてはやされていればよい。

このように土肥実平は思っている。
寿永三年(1184年)二月十三日、平家一門の首が都大路を渡された。
渡されたのは、平通盛、平忠度、平経正、平教経、平敦盛、平師盛、平知章、平経俊、平業盛、平盛俊
の首。
もっとも教経については、まだ本人は生きていて引き回された首が偽者であると後に言われるようになるのだが。
これらの人々はかつて都の市井の人々が彼等の生前決して目にすることができないほどの雲の上の存在だった。
このような人々の首が赤札を下げられさらに槍の先に刺されて都大路を引き回され、やがてその首が獄門の木にぶら下げられたのである。

その様子を見た都の人々は平家の敗北を実感させられた。
そして世の移り変わりの激しさを知り、様々な想いを抱く。

この首渡しを最も満足気に見ていたのが土肥実平である。

今回の首渡しはやはり義経や中原親能の危惧したとおり公卿達の多くが反対した。
院ご自身すら気がお進みにならなかったようである。

しかし、範頼と義経はこの首渡しの件については一歩も譲らなかった。
どのように拒否されても断固として首渡しを強硬に主張し続けた。

数日にわたって議定が開かれ、勅使が何度もあちらこちらを歩き回った。

そして遂にこの首渡しが決行されたのである。

━━━ 雲の上の方々は現在の我々の言い分を無下にできまい。
土肥実平は心中でつぶやく。
福原の戦いで平家が敗れたというものの、彼等の勢力が完全に無くなったわけではない。
平家は未だ四国讃岐国屋島にある。
また、平家の郎党達の中には畿内の本領に籠もっているものも多い。
もしここで鎌倉勢が、軍勢を全て引き連れて東国に戻ってしまったならば、平家が再び勢力を盛り返して都を奪還しかねない。
そうなった場合、都合が悪い方々が公卿の中に多数いる。
その方々は鎌倉方の機嫌を損ねるわけにはいかないのである。

それを知り尽くしているからこそ今回強硬に自らの存念を通さすことができた。