3)知章の場合

「平家物語」諸本の多くは知盛が大手の大将軍となっていますが、
「延慶本平家物語」の記載では生田の大将軍が「重衡」になっていて、知盛がどこにいたのかが記されていません。
したがって知章が父知盛と共にいたと思いますが福原のどこにいたのかが不明です。
さて、「平家物語」諸本によると知盛は敵である武蔵国の児玉党の武士に「他の口が破られた」との報を聞き、背後を振り返ると西側のあちらこちらが炎上していて劣勢に気が付くというように書かれています。「延慶本」では大手が破られたのに気が付くというような書き方になっています。

上記の記載から推測すると、知盛親子は一の谷、山手、生田全ての戦線が破られ後に退却を図った、そしてその戦線離脱のタイミングは平家の諸将の中で最も遅いものだったのではないかと思われます。
そうなるともう知盛親子の近くにはいずれの口からも進入した武士が襲い掛かってくるという状況になっていて、最も遠い場所から進入してきたと思われる「一の谷口」を率いる義経勢に討ち取られた可能性があると思われます。

4)盛俊の場合
盛俊も「引くことが不可能だった」と書かれています。
盛俊の場合ももう多くの敵が侵入してきて引きに引けない状況になる頃まで戦っていたのではないか、と推測されます。その結果「山手口」をまもる盛俊を「一の谷口」から侵入した者達が討ち取るという結果になったのではないかとも思われます。

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「吾妻鏡」寿永三年二月十五日条に平家方で討ち取られたものと、その討手の所属する軍が記されています。それによると次のようになります。

範頼軍ー平通盛、忠度、経俊
義経軍ー平敦盛、知章、業盛、盛俊
安田義定軍ー平経正、師盛、教経

ちなみに、「平家物語」からの引用が多いといわれている「吾妻鏡」の一の谷の戦いの記載ですが、上記の部分は当時の軍事記録から採録されている可能性が示唆されており
比較的信用性が高いとも言われています。

さて、上記の討死者リストをみていると矛盾点が浮かび上がってきます。
それは、攻め手と討ち死に者の担当したところがかけ離れていることです。

それを抜き出してみましょう

範頼軍(東側、生田口担当)が討ち取った人物
 → 忠度(西側 一の谷口担当)、通盛(中央 山手口担当)

義経軍(西側、一の谷口担当)が討ち取った人物
 → 知章(東側 生田口所属)、盛俊(中央 山手口担当)

というように、攻めた担当口からかけ離れた場所にいるはずの相手を討ち取っているのです。特に、忠度と知章は自分の持ち場所から最も遠い場所を攻め寄せた相手から討ち取られています。

もっとも「平家物語」の内容がフィクションだったと言ってしまえばそれまでなのですが・・・

しかし、「延慶本平家物語」を読んでいるとある「もしかしたらこうだったかもしれない」という可能性が浮かんできましたのでよろしければお付き合いください。

1)忠度の場合
延慶本 第五本 『薩摩守忠度被討給事』によるとこのような記載があります。
「一ノ谷ノミギワニ西ヘサシテ武者一騎落行ケリ。(略)葦屋ヲ指テ下ニ落チケルヲ(以下略)」
(現代語訳)「一の谷の海岸沿いを西に向かって一騎だけ落ちていた。(略)葦屋を目指しておちているところ(以下略)」
落ちている人物は忠度です。

ところで、文の冒頭に「西に向かって落ちている」と書いていますが、それから後の文章に「葦屋」を目指して落ちていくとあります。

この「葦屋(あしや)」というのはどこかと探してみたところ、万葉時代には「神戸市東灘区」のある地域がそのように呼ばれていたようです。(こちら) ちなみに東灘区の直ぐ隣は芦屋市(あしやし)です。神戸市東灘区は生田より東にあります。

つまり、「延慶本平家物語」では忠度は西に向かったと冒頭にかいておきながら実は「東にある葦屋」を目指していたという矛盾した記載をしていることになります。

この場合東の葦屋に向かったと見るほうが「吾妻鏡」との間に整合性がみられます。
つまり、西の大将軍忠度は一の谷口から攻め入った義経軍に壊滅させられて東へ行き、
そこで東から攻める大手軍に遭遇してそこで討ち取られた。
そのように見ると「延慶本平家物語」との間の矛盾は解消されます。

2)通盛の場合
「延慶本平家物語」『越前三位通盛被討給事』によると通盛は「東」に行こうとして「湊川の下」で討ち取られたとあります。山手口を落とされた通盛が湊川に沿って海岸近くまで行きそこで討ち取られたと見ることが可能だと思います。

討手が範頼軍だったという点との矛盾に関しては、通盛が東に行こうとして生田からきた範頼軍に遭遇した、もしくは通盛が湊川付近にいたところを範頼軍が東から既に進軍していて通盛を討ち取った、そのように見ることが可能かもしれません。

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では、何が鎌倉方に勝利をもたらしたのでしょうか?
色々な説を上げてみたいと思います。

1)元々平家に対して人数的に劣勢だった鎌倉勢に多くの都の武士が与力した為
軍勢が増えてそれが勝利に繋がった。(元木泰雄、川合康)

2)山手口が最初に突破された為に、平家の船が停泊する大和田泊がまず鎌倉方の占拠された。その為に船に多くの将兵が逃げる時間を失い平家方に大損害を与えた。(菱沼一憲)

3)多田行綱を始とする摂津国武士や途中で義経の道案内者となった武士などの地の利に詳しいものの協力があった。(川合康)

4)福原の防衛ラインが広すぎた。また、山上での戦闘の記録が無く、戦いは山すそもしくは平地でのみ行なわれた。
平家側が山上に兵を配置していれば、平家側は戦いやすかったはずである。(柘植久慶「源平合戦 戦場の教訓」PHP文庫)

5)都において和平と主戦の論議があり、方針がまとまらなかった。平家のほうには和平論だけが伝わり戦闘の事前準備が十分ではなかった。(「吾妻鏡」寿永3年2月20日条宗盛の書状より)

6)平家側の軍勢には「駆り武者(臨時で召集される現地の武士)」が多かった。(「平家物語」)

などなどありますが、どれが正しいのかというのはまだ決着がついていないようです。

しかしながら、「玉葉」によると当初人数的に劣勢と見られていた鎌倉方*が一刻のうちに平家方に勝利した事
そして、多くの平家の将が討ち取られ、一門の中枢に位置する平重衡が捕虜になった、
そのような事実だけでも当時の都の人にとってみれば「劇的な戦い」だったのではないかと思います。

そしてそれに色々な話が後に伝わっていって、「物語化」して「劇的な一の谷の戦い」に昇華していったのではないかと思えるのです。

*「玉葉」の記載によると、鎌倉方の出陣時の兵力は「合計でも2,000から3000騎」程度、対する平家方は数万と噂されていた。

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