さて、「一の谷の戦い」の中での最大のハイライトといえば
源義経が決行したとされている「逆落とし」であると思います。

「一の谷」を守る平家に対して平家が予想だにしない場所、
人馬が通れないような急斜面を義経らが通って平家の陣に奇襲攻撃をかけて
これがこの「一の谷の戦い」の勝敗を決定付けた。

多くの文学作品、映像、そして漫画までもがこのようにこの「逆落とし」を描いています。

しかし、「史実」としての「逆落とし」については実際どのようなものであったのかといえば
現在も論争が続いているというのが実情のようです。

先ず第一に「逆落とし」自体が実際に行なわれたのかどうか
第二に、あったとしたならばどこでそれが行なわれたのか、そして実行者は誰なのかという部分が現在論争になっているようです。

この問題は第二の問題から触れてみるべきだと思います。
「逆落とし」について記しているのは「平家物語」と「吾妻鏡」です。
「吾妻鏡」は「平家物語」と別物、と言ってしまいたいのですが
実は「吾妻鏡」の戦闘の詳細を記した部分は「平家物語」からの流用が多くあまりあてにならないといわれています。

そして「平家物語」の記載も地理的にかなりあやふやなものがあります。そしてその「平家物語」の記載をもとにした「吾妻鏡」の記載もあやふや。この戦いについて唯一信用できるとされている「玉葉」には「逆落とし」に関する記載は一切無し。でも、「逆落とし」は「一の谷合戦」の最大の名場面と人々に認識されている。

そのようなことから「逆落とし」問題が発生し、その実行の地がどこなのか古くから論争が起きていました。そして実行候補地が何箇所か発生しました。
その中で、
1)現在神戸市北区ー長田区を結ぶ鵯越と呼ばれているエリアと
2)神戸市須磨区にある「鉄拐山」だったのではないかという説が
有力なようです。

しかしその二説とも問題を抱えています。



1)鵯越エリア説
「鵯越」は確かに人馬が通れそうな道ですが
「平家物語」が記すように馬が転落したり、攻撃を仕掛けようとする武士達が恐怖を感じるほどの急激な山道ではないというところが問題点に上げられます。
そして何よりも、「玉葉」の記載に基づくと「鵯越」は「山手口」に相当する為に
「一の谷口」を攻めていた義経がここにいるのはおかしいということになります。
そのため「逆落とし」を仕掛けたのは「多田行綱」だったという説まで発生します。

しかしこの場所には一つだけ説得力があるものがあります。
というのは、ここを破ると東で戦闘を行なっている生田口と西で戦闘を行なっている一の谷口の中間を破ることができるのです。
そしてそれが実行された場合は平家側に対するダメージはある程度起きるだろうということが想像できるのです。

けれども、これを奇襲というにも問題があります。
平家側は山手口からの来襲に備えて平通盛らをあらかじめ配備してあります。
敵襲が予想される場所に防衛部隊を置いておいて「奇襲を受けた」というのもおかしな話です。

それに「逆落とし」の実効性も疑わしいものになります。
福原の戦線は現在の神戸市の行政区4区(中央区、兵庫区、長田区、須磨区)をまたいだ広大なものです。このエリアには現在JRの駅が8つも存在します。
こんなに長い戦線の一箇所が奇襲によって破られたからといって直ちに福原全域に配備された平家軍が全て壊滅するというのはおかしなものです。

2)鉄拐山説
こちらの方の斜面はかなり急激です。
そうなると今度はこの山は急激すぎて逆落としを決行すること自体無理という意見があります。

そしてもう一つの問題は、今度はこちらの方は一の谷口に近すぎて福原の戦いの戦線全体を決定付けるというには無理があるということです。

このように鵯越、鉄拐山共問題点を抱えています。

というわけで「逆落とし自体がフィクション」という説まで出てくるのです。

ですが、「玉葉」の内容を確認しながら検討するとある一つの「逆落とし」の可能性が浮かび上がってきます。
「玉葉」の記載に従うと義経はあくまでも福原の西「一の谷口」の攻略を担当していました。一の谷口だけならば、ある程度戦い場所も限定されます。そのようなところで行なった「逆落とし」ならば、そこの部分の戦闘に大きな影響を与えることが出来たかもしれません。
ですから「福原戦い」全般の勝敗を一気に決する「逆落とし」ではなく「一の谷口」の戦いを決する「逆落とし」はあったのではないかと考えられます。
そして、その逆落としが行なわれた場合その場所は「鉄拐山」である可能性が大きいと思います。

問題は「鉄拐山」の逆落としが可能かどうか、ということですが
近年発表された 近藤好和「源義経」(ミネルバ書房)において
勾配が90度近くある坂道であっても騎兵が通ることが可能ということが証明されました。
(海外の軍隊の騎兵が90度近い勾配の坂道で騎乗している写真が掲載されています)

そうなると「鉄拐山」もしくはその近辺の山で逆落としが行なわれるということも可能だったということになります。

つまり、「福原の戦い」そのものを決する「逆落とし」はなかったが、「一の谷口」の戦闘」を決する逆落としは行なわれ、それを行なったのは源義経だったのではないか、
と考えることが最も合理的であると思われます。

参考文献 
川合康「日本の中世3 源平の内乱と公武政権」(吉川弘文館)
近藤好和「源義経」(ミネルバ書房)
菱沼一憲 「源義経の合戦と戦略」(角川選書)
元木泰雄「源義経」(吉川弘文社)

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山手を攻めた大将軍は誰だったのでしょうか?

「玉葉」には多田行綱が率いていたような書き方がされています。
しかし、「吾妻鏡」をみると全く別の記載があります。
「吾妻鏡」寿永三年二月十五日条には平家の主だった武将の戦死者とその討ち取った人の所属する軍が記されています。
それによると
範頼軍ー平通盛、忠度、経俊
義経軍ー平敦盛、知章、業盛、盛俊
安田義定軍ー平経正、師盛、教経

とあります。
「平家物語」や「吾妻鏡」二月五日条では安田義定は源義経に属する搦手の一員として記されていますが、「吾妻鏡」のこの記載によると義経からは独立した一部隊であるように記されています。
(ちなみに二月七日条では、範頼・義経軍はまとめて武功が記されているのに対して義定は別記で武功が記されています)
このような事を考えると安田義定は少なくとも「大手」にも義経率いる「搦手」にも属さず、義定軍として独立した動きをしていたと見るべきなのではないかと思います。

では、義定はどこにいたのかといえば、大手「生田」でもなく搦手「一の谷」でもない別の場所から攻めた可能性も大きいと思います。

ならば残された場所はただ一つ「山手」しかありません。
義定が「山手」に行ったという記録はありません。けれども状況を考えると「山手」に行きその責任者的な立場にいたと鎌倉方が認識していた可能性があります。

しかし、都にいる九条兼実は「多田行綱」が率いていたと読み取れる内容を「玉葉」に記していますし、そう記されている以上「多田行綱」が山手に行ったことは確実であると判断せざるをえません。
というわけで、山手には「多田行綱」がいたのは確実で「安田義定」がいた可能性も高い、しかし彼等のいずれかが全軍を率いる立場であったのかどうかは分からない、
というのが実情なのではないかと思われます。

このような事を踏まえつついろいろと考えてみると次のように見るのが無難なのではないかと思います。
山手口を率いていた人物は多田行綱か安田義定のどちらか、もしくは両方だった可能性があると。
そして彼等は、範頼にも義経にも属さない「独自」の軍団だった可能性が高いとも。

さて、今度は守る側の平家の将たちです。
こちらは「平家物語」にしか記されておらずその記載を信じるしかありません。

それによると
生田口ー大将軍 平知盛、 副将 平重衡
山手口ー大将軍 平通盛、 侍大将 越中前司 平盛俊
一の谷口 -大将軍 平忠度

となります。

平家側の布陣については上記の「吾妻鏡」の討死者リストと付け合わすと多少おかしな部分がありますが、これについては後ほど書かせていただきたいと存じます。

一の谷布陣図

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5)玉葉の語る戦い
一の谷の戦いについて同時代に唯一語っているの文献「玉葉」にはこの戦いの様子が次のように記されています。
「一番は九郎の許より告げ申す(搦手なり。先ず丹波城を落とし、次に一谷を落とすと云々)次に加羽冠者案内を申す(大手、浜地より福原に寄すと云々)。辰の刻より巳の刻に至る、直一時に及ばず、程なく責め落とされ了んぬ。多田行綱山方より寄席、最善に山手を落とさると云々。大略城中に籠る者一人も残らず。但し素より乗船に人々四五十艘許り島辺にありと云々。而るに廻り得べかりざるに依り、火を放ち焼け死に了んぬ。」
(寿永三年二月八日条 「訓読玉葉」より抜粋)

これによると、戦闘においては山手が落ち、ついで一谷、浜地(生田のこと)が落ちたということになるでしょう。
また、義経が一谷に向かう途中に「丹波城」を落としていtということも読み取れます。
この「丹波城」は「平家物語」でいうところの「三草山」にあたると思われます。

義経率いる「一谷」、範頼率いる「浜地」、そして多田行綱がいる「山手」の三箇所で戦闘が行なわれたということが読み取れると思います。
そして、戦闘は真っ先に「山手」が突破され、ついて一谷、浜地が落ちたものと思われます。

一の谷布陣図


6)指揮官たち
では、この三口を攻めた指揮者達は誰でしょうか。
浜手つまり福原の東側の生田口(現在の兵庫県神戸市中央区あたり)を攻めたのは「玉葉」「平家物語」とも「源範頼」と示しています。

一谷はどうでしょうか。
「玉葉」の記載を信じる限りにおいては
「一谷」を攻めた指揮官は「源義経」であると考えるのが妥当だと思います。
「平家物語」の記載を読むと義経率いる軍はどのように動いたか、細かい部分をつつくと分かりにくくなるのですがここはあくまでも「玉葉」の記載を信じるべきだと思います。
そして「一谷」はどこなのかと考えるならば、福原の西の入り口の現在の兵庫県神戸市須磨区あたりだと考えるのが妥当だと思います。

では、「山手」はどうでしょうか?
まず山手の場所ですが、いろいろと論争があるようですが、現在の神戸市北区から兵庫区に抜ける現在「鵯越」と呼ばれているあたりというのが一番可能性が高い気がします。
(ここで「逆落とし」が行なわれたかどうかは後ほど書かせて頂きます)

そしてその指揮官は誰だったのか?というとそれが一番わかりにくいところなのです。

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