3)治承寿永期(源平期)の戦闘のあり方
この先、具体的にどのようにして一の谷の戦いが行なわれたか書いていこうと思っていますが、その前提条件として当時の戦いがどのように行なわれていたを書かせていただきたいと思います。

まず、当時武士が行なうべき第一の鍛錬は「弓馬」でした。
つまり、飛び道具である弓矢を正確に撃つということと、馬を上手に乗りこなすということが武士にとって第一の必須要綱であったようです。

戦争において「飛び道具」がいかに有効であるかということは語るまでもないでしょう。
当時最も有効な殺傷力を有する飛び道具であった弓矢をいかに正確に射るかということが当時の武士の必須要綱であったかというのも容易に想像できます。
また、その矢の攻撃をかわすために動くには不自由としか思えないあの大鎧を多くの武士が着用していたのもわかります。

また、当時の武士の多くは馬にのっていました。
馬に乗って戦闘を行なうのです。

そうなると今度は当然相手の馬の動きを封じる方策がとられるようになります。

「吉記」寿永二年十一月十八日条に次のような記載があります。
「仁和寺宮巳下宮々并山座主、及他僧綱・僧徒、各相具武士候辻々、或引防雑役車、或引逆茂木、掘堰(以下略)」
これは、木曽義仲との戦いに備える後白河法皇に従った寺社勢力が義仲との戦いに備える支度を記したものです。

武士達を従えた僧侶たちが、車をその辺に置き、逆茂木を設置し、急ごしらえの堀を作ったという記載です。
逆茂木とは急ごしらえの柵のようなものです。
義仲との戦いに備えて進軍を妨げるバリケードを築いていたのです。

また、「平家物語」をはじめとする軍記物でも似たような記載が所々にあります。

つまりバリケードを設置して、落とし穴を作って馬が先に進めないように支度するのです。
そしてそのバリケードの中から矢で敵を射落とそうとする。
攻め手の方は、それが分かっていますから、バリケードを除去する歩兵が必要となります。

つまり、このように簡単なバリケードの設置とその除去という作業も当時の戦闘には多くみられていたようなのです。

そして「平家物語」における一の谷の戦いにおいても
東の木戸口生田口や西の木戸一の谷口にこの「逆茂木」や「堀」が設えられていたという記載があります。

つまり一の谷の戦いにおいては逆茂木というバリケードや堀という落とし穴が存在し、それを挟んだ矢の射掛けあいや、逆茂木の撤去やその逆茂木を乗り越えて行なう先陣争いがあったのではないかと推察されるのです。

4)史料について
「一の谷の戦い」について記した史料として
「平家物語」「吾妻鏡」等があります。
しかし「平家物語」はフィクションも含み、また地理的にみておかしな記載があるのでその辺りを留意しなければなりません。
一方「吾妻鏡」ですが、これは後世の編纂物であり、また「一の谷」に関しては「平家物語」の記載を無批判で流用した記載があるのでこちらも信憑性を疑わなくてはならないようです。

最も信頼できる史料は同時代に書かれた日記「玉葉」ですが、その内容があまりにも簡潔すぎるので戦闘の詳細部分を推し量るのには不都合があります。

そこで専門の方々の現在のスタンスは
「玉葉」の記載を基本にしつつ、場合によって「平家物語」や「吾妻鏡」の記載を参考にする
ということになっているようです。

そこでそのスタンスにこちらのブログも可能な限り従いたいと思います。

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やっと一の谷(正確には生田・一の谷合戦または福原合戦)を書き上げることができました。
さて、一の谷というと源平合戦(正確には治承寿永の乱)最大のハイライトとも言ってもよい合戦といえるでしょう。

また、この戦いの実相については色々な意見があり未だに定説定まらずというものがありどのように書けばより正解に近いのかというのは不明です。

そのような中なんとか自分なりの「一の谷」を書くことができました。

これからどうしてこのような書き方になったのかということを書かせていただきたいと存じます。

1)鎌倉勢という表記について。
「治承寿永の乱」が「源平合戦」という言葉で言い表せるのであれば、「鎌倉勢」という表記ではなく「源氏」と表記すればいいのでしょう。
しかし、実際には「反平家」を掲げて挙兵したのは源頼朝だけでなく、木曽義仲、甲斐源氏、近江源氏、美濃源氏、尾張源氏などの源氏諸氏さらに、北陸豪族、畿内の寺社勢力、四国の河野氏九州の諸豪族など源平の氏に関わらないものまでが挙兵をしました。
これらの勢力は全て頼朝の意志に関係なく挙兵をしたものです。
つまり頼朝は「各地で蜂起した反乱勢力の中の一つ」にすぎません。また、頼朝以外に「源氏」は多数存在したのです。

そのように考えますと源頼朝率いる軍団だけを「源氏」と称することに対しては抵抗を感じます。

勿論後述するように頼朝の配下のみでこの一の谷攻撃軍が構成されていたわけではないので「鎌倉勢」と称するのも問題があるのですが、「源氏」と書くよりは私の中ではしっくりきますのであえて「鎌倉勢」と書かせていただきました。

2)攻め手の軍事人員構成

元木泰雄「源義経」(吉川弘文館)
川合康「日本の中世3 源平の内乱と公武政権」(吉川弘文館)
などでは
一の谷を攻めた軍勢は東国から上洛した者たちだけでなく、
多田行綱やその他畿内の武士を含めた混成軍だったのではないか
という説を展開されています。

「玉葉」の記載には寄せ手に「多田行綱」の名がありますし、「吾妻鏡」にさえも畿内の武士の名(佐々木成綱、俊綱)が見受けられます。
また川合康氏はその著書「日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権」(吉川弘文館)にて「儒林拾要(じゅりんしゅうよう)」所収の廻文を紹介していますが、その内容は摂津国武士たちに期日までに都の丹波口にまでくるようにと命じたものです。そしてその召集の目的は摂津の武士達を一の谷の戦いへの参戦させるものらしい、ということです。

そのことは確かに上記の説を裏付けていると思います。

そしてこの頃頼朝は「東国の支配権」は認められていますが、畿内西国の武士達はその範疇には入っていません。
「平家追討の宣旨を受けた頼朝」に「与力」したとみなすのが妥当な所だと思われます。

また東国から従軍した軍団も全て頼朝の代官たる範頼、義経によって全て一元支配されていたわけではないようです。
一元支配に完全に応じない軍団ーそれは甲斐源氏安田義定率いる軍団です。
「吾妻鏡」でさえも、範頼・義経と義定を区分して書いている記載があります。
義定も確かに「平家追討の宣旨を受けた頼朝」に従って出陣していますが、その立場は「協力した」というものであって「命令された」という立場にはないと考えるべきではないかと思います。この頃においても義定は頼朝に対してある程度の「独立性」を持っていたものと見るべきでしょう。
ちなみにこの時点では、範頼・義経が無位無官であったのに対し、義定は「遠江守」という立場で官位の面では明らかに範頼義経より上位に位置しています。

つまり、平家がいる一の谷に対して攻撃を仕掛けた軍団の構成は

a)範頼・義経が頼朝代官として率いている鎌倉御家人
b)安田義定率いる甲斐源氏の家人
c)多田行綱ら畿内、西国の武士達

で構成されており
a)以外は頼朝にたいしては友軍的な立場にあったとみなすべきではないかと思います。

ちなみに元木泰雄氏は「源義経」の中において、軍団内において畿内武士が多くの比重を占めていたのではないかと述べておられます。

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史料名 (玉)ー玉葉、(吾)ー吾妻鏡
















 
日付 鎌倉上洛勢力等 その他 朝廷 平家
1月21日     摂政交替の噂(玉)戦後処理平家追討の会議(22日条)兼実に政権の話(2/1日条)頼朝に使者を出す(玉2/20条)  
1月22日             
1月23日     平家追討の方針が固まる(玉)  
1月26日 平家追討の為に出門(玉) この頃摂津の武士に平家追討軍への参集の招集がかかる* 平家追討を中止、静賢を使者として送る方針(玉)、平家追討の宣旨発行(玉2/23条)  
1月27日      使者送り中止、平家追討に動く(玉)    
1月28日 平家の使者を捕えるため義経郎党が狼藉を働く(玉)       
1月29日 平家追討の為に出立(玉、吾)    平家追討確実(玉)、義仲残党追討の宣旨(玉2/26条)   
2月1日 範頼、頼朝に叱責される(吾)追討使全て出立、山陽道を追い落とす(玉)          
2月2日 追討使大江山に留まる、土肥実平使者を送ることに賛同(玉) 院の御子と称するものが伯〇国(〇=老+日 ほうきくに)で反平家運動を行なっている(玉) 七条あたりで火事、朝廷はあくまでも平家追討の方針(玉)      
2月3日   行家都に入る、頼朝と和解(玉)    
2月4日 追討使平家に対して勢少なし(吾)       福原に入る(玉)
2月6日  このころ三草山の戦いか?          平家一の谷に引き退き伊南野に入るとの報が都に入る(玉)
2月7日 一の谷の戦い(玉)        一の谷の戦い(玉)


*「儒林拾要(じゅりんしゅうよう)」所収の廻文。川合康「日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権」(吉川弘文館)より

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