寿永二年(1183年)源頼朝は朝廷に三箇条の申し入れを行なっています。
その中にこのような文言があります。
「一、勧賞を寺社に行なはれるべき条
右日本国は神国なり(以下略)」(「玉葉」 寿永二年十月三日条)

また、一の谷の戦いの後も次のような文言の記されたものが朝廷に差し出されています。
「一、諸社の事
我が朝は神国なり、(以下略)」(「吾妻鏡」 元暦元年二月二十五日条)

最初に挙げた寿永三箇条の申し入れの後に「寿永二年十月宣旨」(頼朝の東国支配が認められた宣旨)
が頼朝に下され、元暦二年の方は平家が大きく勢力を後退させた一の谷の戦いの後の政治方針に大きく影響を与える申し入れと言えるでしょう。
つまり、いずれにせよ二つとも頼朝にとって大きな政治的意味をもつ申入れであると言えるでしょう。

この二つの申入れのなかに「神国」という言葉が記されています。
もちろん政治的な文書なので頼朝の本音はどこまでかということは分からないですし、寿永二年のほうは寺社の荘園がらみ、元暦のほうも他の条との兼ね合いもあります。

しかし、頼朝が「日本は神国」であると明言し、その言葉が朝廷のほうでも受け入れられている
という事実はあったと見るべきでしょう。

もちろん戦前散々言われた「神国」という言葉とはニュアンスもつかわれかたも
違うものであると思います
ただ、よく言われているように「神国思想」は「元寇の後から起きた」というわけでもないのかな
という疑問が私の中に湧き上がっているのも事実ですそしてどのような意味で「神国」という言葉が使われていたのかという点も知りたいとも思います。

イデオロギー的な論争を抜に冷静に「神国」という言葉を学術的に議論した場合
頼朝が記した「神国」がどのような評価が下されるのかという点が非常に気になります。

今回の記事はただ単に一つの言葉の平安末期におけるつかわれかたに関する疑問のみで深い意味はありません。
平安末期と現在では言葉一つでも違う意味がある(たとえば「きりぎりす」は現在でいう「コオロギ」をさす)
というのと同じレベルでの疑問です。
次の日から範頼の元に梶原景時と土肥実平が顔を見せるようになった。
勿論上洛する為に色々と話を詰めるためである。

各御家人の動員力や特徴、それぞれの出立の日付などこまごまとしたことまでこの両人はよく熟知している。
兄の言うとおり頼りになる人物のようであった。

梶原景時は二日ほど範頼の屋敷に顔を出した後直ぐに一族郎党を連れて先に出立した。
このとき景時は息子達も同行させたが、景時の嫡男景季は頼朝に強く乞うて得た名馬「磨墨(するすみ)」にまたがって西へと向かっていった。

景時が早くに出立した理由は先に尾張に滞在している範頼の弟九郎義経に合流するためである。
義経は現在尾張・美濃そして畿内の武士達に与力を働きかけている。
義経もまた範頼と同様に一軍の将となる男である。
今回の戦では景時は義経に付くことになっている。

景時父子が出立したのとほぼ時を同じくして、範頼の屋敷の侍女志津の夫藤七も都へと向かった。
藤七の主佐々木一族も今回上洛軍に加わっており、佐々木一族も義経の軍に加わるからである。
佐々木一族の一人佐々木高綱もまた頼朝から賜った「生食(いけづき)」にまたがっている。

功名手柄の野望に燃える坂東武士たちが続々と西へと向かっていく。

そのようなさなか範頼は盟友から一通の書を受け取っている。
盟友とは遠江守安田義定。
範頼とは挙兵以来の盟友である義定も兵を率いてその歩を西へと進めた。
甲斐源氏安田義定はひとまず尾張にいる義経のもとに合流する予定である。

そして、甲斐・駿河にいる甲斐源氏の面々も続々と出立する動きを見せているようである。

そして範頼自身の出立の日も近づいてきていた。

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兄はおだやかな顔を弟を見つめた。
「なにゆえじゃ?」
と弟に問う。
「私には荷が重すぎまする。」
範頼は昨晩から抱えていた想いを兄に伝えた。
兄は無言で弟を見詰めている。

「兄上から頂いた書状の中には多くの御家人の名が記されていました。
その御家人たちが私の命令一つで戦を行なう、
そのように考えると急に恐ろしくなったのです。
この御家人たちは多くの郎党を抱えていてその者達も出陣いたしまする。
そして、御家人たちにも郎党達にも父母があり兄弟があり妻子がおりまする。
私が戦場で発する命令の一つ一つに多くのものの命運がかかる、
そのように考えると大将軍になることに自信がなくなったのです。」

兄ー鎌倉殿源頼朝は静かな微笑みを湛えている。

「六郎よ。わしは安心した。そなたに大将軍を任せるというわしの判断が誤っていなかったことに。」
兄はそう言う。
「軍を率いるものには、その命令の一つ一つに重みがある。
軍に従うものの功名手柄を、家産を、そして何よりも命をあずかるのだからな。
そして夫々に連なるものの命運も・・・
六郎、そなたにはその重さがわかるようじゃ。
将たるものの責の重さを知るそなたであればこそ
戦場に向かうわしの御家人をそなたに託すことができる。」

頼朝は弟におだやかに話しかけた。

「だが、戦の経験が少ない六郎にはこの重みは多少辛いやもしれぬな。
さればこそ、梶原平三や土肥次郎をそなたや九郎につけることにしたのじゃ。
この両名は信用おけるものたちじゃ。
何事もこの両名に相談するが良い。
相談しても迷うときは鎌倉に使者を送るが良い。
最後の判断はわし自らが下す。最後の責任はわしが取る。」

範頼の顔からこわばりが少し抜けた。
「そのようにいたしまする。」と範頼は答える。

頼朝は満足そうに弟を見つめる。
「ならば引き受けてもらうぞ。大将軍を。」
範頼は無言で兄鎌倉殿の命を承った。

その様子を眺めて頼朝は満足していた。
自らの心の不安を正直に兄である自分に相談してきた弟に可愛げを感じていた。
そして今自分の懐の中に弟を抱え込んだ事を実感した。
今の弟ならば甲斐源氏の盟友という立場より頼朝の弟という立場を優先するであろう・・・

やがて範頼は兄に礼を述べて退出した。

弟の後姿を見送ってから暫くして頼朝はただ一人誰もいない空に向かって小さな声でつぶやいた。
「わしは己の心の弱さを誰にさらけだせばよいのだろうか。
わしが判断に迷ったときわし以外の誰に決断を仰げば良いのだろうか。」
坂東のもののふの頂点に立ち自らの意思が鎌倉に集うものの全てを決する鎌倉殿は答えを出すことのない相手に語りかけていた。

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