範頼は西へと向かう。
途中土肥実平の本領のある西相模で実平の郎党たちと合流した。
実平の軍勢と荷駄は一気に膨れ上がった。

さらに西へ向かうと駿河では人々が慌しく動いている。
こちらも今回の上洛に同行する一条忠頼が出陣の支度をしているためである。
駿河を支配下に抑えている甲斐源氏一条忠頼も近く熱田に向かう予定である。

その西、遠江の様子は穏やかである。
ここを治める甲斐源氏遠江守安田義定は既に尾張熱田に向かい既に彼の地にある義経と合流している。

さらに進むと範頼が勢力を張っている三河である。
ここで上洛の支度をしている当麻太郎と合流する。
兵の多くは先に出陣した際に熱田に連れて行き現在はそこに留めている。
此度はその兵たちの数十日分の兵糧を運ばなくてはならない。
範頼は二日ほど三河に留まり、そこで年を越した。
寿永三年(1184年)の到来である。

やがて範頼と土肥実平は尾張に熱田へと入った。
熱田に近づくと多くの兵馬がごったがえしていた。
だが、上手く場所割りがされていると見えてよく起こりがちな諍いなどが見られない。

多くの人や馬を掻き分けて義経らの待つ本陣へと向かう。
本陣にはすでに先客がいた。
義経は当然の事、かれの軍目付となる梶原景時、そして遠江から先に駆けつけていた安田義定がいた。
範頼が姿を現すと彼等の中でもっとも上座に座していた義経が席を立ち範頼にその場を譲った。
自然範頼が一同を見渡す位置に座ることになる。

範頼の次の座には義経。義経の傍らに控えるように梶原景時が座している。
そして義経の下の座に安田義定が座っている。

座るべきところにすわり互いに挨拶を述べた。

次に梶原景時が口を開き軍議が開かれた。

都の近辺の地図が開かれる。
東から都に至る道は二つある。
一つは琵琶湖の南を通り、勢多から入る道。
もう一つは勢多から分かれて田原路を通り宇治から入る道である。

この二つが大軍を率いて都に入るには都合が良い。

軍を二つに分けて都を目指すべきだろうというところに意見は落ち着いた。



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源頼朝の乳母として知られているのは
1.比企尼 (比企掃部允の妻)
2.寒川尼 (小山政光の妻)
3.山内尼 (山内首藤俊綱の妻)
4.三善康信の伯母

がいます。ただし4.は上記三人の誰かと同一人物の可能性もあるとのことです。

その他に
頼朝が誕生した時に「乳付」をしたといわれている「尼摩々」という女性(「吾妻鏡」養和元年(1181年)閏二月七日条)も頼朝の乳母だったのではないかと言われています。
ところで摩々尼という女性ですが、「吾妻鏡」によると頼朝の父義朝の乳母として紹介されている記事があります。
(「吾妻鏡」文治三年(1187年)六月十三日条や建久三年(1192年)二月五日条)
つまり、「吾妻鏡」には頼朝の乳付をした女性と義朝の乳母であった女性として「摩々」という人物が登場していることになります。

そのようなわけで頼朝に乳付をした「尼摩々」と義朝の乳母「摩々尼」は同一人物か否かという論争があるようです。
ちなみに吾妻鏡の記載に従えば、頼朝誕生当時義朝乳母摩々尼は数え年47歳となります。

この論争のポイントの一つに
「乳付」という言葉があります。
「乳付」とは文字通りの解釈をすれば
生まれたばかりの赤ん坊に初めて授乳をさせること
となります。
すると、当時数え年47歳(満45-46歳)で出産直後とするには少し無理がある義朝乳母摩々尼が「乳付」したとは考えがたいという理解もあるようです。


しかし「吾妻鏡」の記載は、その「文字通りの解釈」だけではない「乳付」であった可能性があります。

角田文衛「待賢門院璋子の生涯」(朝日選書)の中に面白いことが書いてありました。
中宮璋子が第一皇子(後の崇徳天皇)を出産した際、「自らの手で皇子の臍帯を切り、早々に乳付された。」
と書かれています。その「乳付」という言葉に注釈があって
その注釈によると、
「ここでいう『乳付』は、初めて授乳することではなく、嬰児の口中から汚物を布などで綺麗に拭い取り、
乳が飲めるようにすることを意味している。」

つまり、このような「乳付」ならば授乳可能な産後間もない女性でなくても可能な行為なのです。

もしその意味だったならば数え年47歳の義朝乳母が生まれた直後の頼朝の「乳付」をすることも可能だったでしょう。

さて、ここまで「乳付」という言葉にこだわって義朝乳母「摩々尼」と頼朝に「乳付」をした「尼摩々」が同一人物であるか否かという点を書き連ねてきたのですが、もう数点論争のポイントがあるので書かせていただきます。

・頼朝に「乳付」をした「尼摩々」、義朝乳母「摩々尼」ともに相模国早川に住んでいて、そこの土地の管理をしていた。(同じ場所に住んでいたので二人は同一人物もしくは縁戚の可能性が高い)
・頼朝に「乳付」をした「尼摩々」は当時「青女」(年若い女性)だった。(数え年47歳は若いとは言えない)
・「摩々」という言葉は当時の「乳母一般」を指す言葉。(別人でも「摩々」と全て称される可能性が高い。)

というわけで頼朝の乳付をした女性と義朝の乳母であった女性が同一人物であったのかどうかという論争は簡単に決着のつく問題では無いようです。

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その日の早朝、鎌倉の蒲殿源範頼の邸では縁起物が並べられた。
そして古来より続く出陣の儀式が執り行われた。
厳かなその儀式が終わると範頼と彼に付き従う者達は妻、舅、姑、義弟たち、そして留守を守る者達に見送られて邸を後にした。
あえて振り返らない。
再びこの邸に帰ってこれるかどうかは分からない。
しかし、振り返ると二度とここに戻れないような気がする。

再び生きてここに戻ってくる、その決意があるからあえて振り返らない。

妻の瑠璃はいつもと変わらぬように見送った。
いつもと同じように見送ったならばいつものように夫が戻ってきてくれる気がした。

郎党の家族たちも夫々の想いを抱えながら夫を、父を、そして息子を送り出した。

範頼はまっすぐに大蔵御所へと向かう。

兄である鎌倉殿に出陣の挨拶をするためである。

大蔵御所に着くと今回の軍目付である土肥実平が既に範頼を待っていた。
実平と合流してから頼朝に面会する。

挨拶にきた二人を頼朝は満足気に見つめた。
「おお、六郎なかなかの大将軍ぶりではないか。」
自らが贈った錦の直垂を着こなしている弟を頼朝は誉めた。
「は!」
と範頼は返答する。

「良いか、六郎このたびの軍は何事も土肥次郎と相談するのじゃぞ。」
「はい。」
「土肥次郎、よろしく頼む。」
「ははっ」
二人は揃ってかしこまった。

「それから六郎、申し渡しておくことがある。」
「はっ」
「そなたと九郎は、わしの代官である。そして大将軍である。
此度はさまざまな者がわが鎌倉勢に与力するであろう。
中には官位や領地ではそなたたちより格上のものも参陣するやもしれぬ。
だが、忘れるな。わしは朝廷より東海東山の支配を任されているものであるということを。
そのわしの代官であるのじゃ、そなたたちは。
いかようなものが与力しようとも、朝廷から認められた鎌倉殿の代官である以上
そなたはいかなるのもの下風についてはならぬ。そなたより官位が上の者であっても、じゃ。そなたが下風に立つということはわしが下風につくと同じことじゃ。
鎌倉殿代官として常に陣中の最上位に位置せねばならぬ。
そのことを決して忘るるな。しかと肝に銘じよ。」

頼朝は瞳に強い力を込めて自らの代官となる弟を見つめた。
「はい。」
範頼は兄に気圧されたかのように返答した。
「土肥次郎もこのことを深く心に命じられよ。」
「はっ」

頼朝からさまざまな引き出物を渡された範頼と土肥実平が大蔵御所を出たときには陽がすっかり高く上っていた。

かくして鎌倉殿の代官源範頼とその軍目付土肥実平は都の木曽義仲を攻めるべく鎌倉を後にし、西へ向かった。

寿永二年(1183年)も間もなく暮れようとする頃のことである。

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