寿永三年(1184年)二月九日 福原の戦い(一の谷の戦い)に勝利した源義経は都に再び入った。
鎌倉勢の勝利の報を半信半疑で聞いていた都の人々も、この義経の入京と捕虜となった平重衡の姿をみて、平家敗北が確たるものであるということを知ることになる。

平重衡の身柄は義経と共に都に入った土肥実平が預かることになった。

その日の夜、義経の兄で鎌倉勢大手大将軍の源範頼も入京した。

範頼は福原に留まり、占領地の検分と戦後処理にあたるつもりでいた。
しかし、軍目付梶原景時に強硬に都入りを進められて、急いで都に向かったのである。
安田義定にも入京を勧められた。

六条堀河の義経の邸に範頼が入ると、土肥実平が早速範頼と義経の前に姿を現した。

「おん大将方は明朝、院と帝に拝謁賜るやに聞いております。」
と土肥実平はそう切り出した。
「いかにも」
と義経が答える。

「院や雲上の方々は、お二方をさぞお褒め下さるでありましょう。」
と土肥実平は言う。
「何しろ、平家強勢が伝えられておりましたからな。平家が都に戻るとご都合の悪い方が大勢おられましたから、吾等鎌倉勢の働きに感心する向きが多いやに思われまする。
しかし、吾等安堵してはなりませぬ。
持ち上げておいて、そこから鋭く失点を追及するお方もおられますると思いまするゆえ。」
「失点とな?」
義経は怪訝な顔をして実平を見つめる。

「さよう、吾等は都の方々が最も望むことを達することはできませんなんだ故に。」
「と、申されると?」
「神器でございまする。われらは、神器を取り戻すことはできませんでした。」

確かに、平家を討つ為の出撃は神器を武力で取り返すという名目で行なわれた。
平家の軍事力に大打撃を与えたものの、名目上の本来の目的は全く達成されていない。
このことを衝いてくるものが必ず出るというのである。

戦の現場に立ったものから言わせると、平家を福原から追い落とすのが精一杯で神器奪還まで手が回らなかったというのが実情である。
しかし、その実情を知らずに、いや知っていてもあえて無視して神器奪還の失敗をついてい来るものが出てくるであろう。

そうなると、「鎌倉勢の勝利」というものが神器奪還できなかったという「失点」によってかき消されることになる。
「勝利」がかき消された場合、後々朝廷との恩賞交渉で鎌倉勢は不利な立場に立たされる。

そうであってはならない。この福原の戦いは「鎌倉勢の勝利」でなければならない。
「鎌倉勢は勝利したのだ」ということを都の人たちに知らせなければならない。

「我々は、神器の奪還に失敗しました。けれども戦には勝利したのです。
勝利したと人々に思わせなければなりません。そこで・・・」

土肥実平は範頼、義経にあることを提案する。

その言葉を聞いた二人は夫々表情を曇らせた。
だが、土肥実平はその提案を引っ込める様子は無かった・・・

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「玉葉」を読んでいると人名等の表記で面白いものがあります。

例えば
加千波羅平三→ これは梶原平三(景時)の初登場の際の記載です。(寿永三年一月二十日条)
加波冠者→ これは蒲冠者(範頼)の初登場の際の記載です。(寿永三年二月八日条)

ところで加千波羅は次回登場時(寿永三年二月八日条)には梶原平三景時ときちんと表記されています。おそらくその間に兼実が景時の正式な漢字を覚える機会があったのではないかと思われます。

となると加千波羅は 当て字 であるとしか思われません。

「玉葉」には他にも当て字と思われる人名等の表記が時折見受けられます。

そうなるのも無理はないと思います。

「玉葉」は漢文で書かれています。
漢文は全て漢字で表記されていなければなりません。

わからなければ「ひらがな」や「かたかな」を使えばいいというものではありません。

そうなると結局聞いた名前と同音の漢字をなんとか当てはめるしかないのでしょう。

現在の我々から見ると奇妙に見える表記も、兼実が一生懸命に考えて当て字をした。
そのように思うと兼実さん、かなり努力して知らない人の呼び名を書き留めていたのかもしれないと思えるのであります。

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義仲が鎌倉勢に攻められて都を落ちる前に、ある女性と名残を惜しんでいたという逸話が「平家物語」等の軍記物に記されています。

その名残を惜しんだ女性は「平家物語」諸本によって違います。

1.前摂政松殿基房の娘
2.都に入ってからのなじみの女房

という異なる相手が夫々記されています。

現在、小説などで描かれる場合は松殿の娘を取り上げているケースが多いように見受けられます。

ちなみに、義仲が松殿の娘を妻にしたという話は「平家物語」等の軍記物が主なソースで当時の「玉葉」などの日記等にはかかれていないようです。

木曽殿が本当に、最後に名残を惜しんだ女性がいたのか、いたとしたら相手はだれだったのか、非常に気になるところです。

ところで、義仲に関しては巴にしてもそうですが「軍記物」の記述があたかも史実であったかのように鵜呑みにされているような気がしてなりません。

もっとも「軍記物」鵜呑みは義仲に限ったことではないのですが、
学術的研究の世界においては、少なくとも清盛、重盛、頼朝、義経などに関しては
「脱軍記物」という試みがなされているようですが、義仲に関してはどうなのでしょうか?

「軍記物」は確かに面白いのですが、面白いが故にそれを史実だと思い込まされてしまう危険性を多分に含んでいるような気がします。

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