軍議が終わると出兵に向けての動きが始まる。
義経らは都に戻った。大手軍は先発隊が西へと移動する。
多田行綱は摂津国の武士たちの動員を呼びかけるべく摂津国へと戻る。
その他畿内の武士たちもそれぞれに大手軍搦手軍に従軍の意を伝えるものも現れた。

そのよう折、在京中の源義経が都に派遣されたある平家の使者を捕えた。
都の貴族の中には平家と連絡をとっているものもある。

その使者を尋問する義経。
するとその言葉の端からある事を知った。

福原にいる平家の軍勢に変化があるというのである。

念の為義経は西国から都に上る人々を何人か呼び寄せ福原の様子を尋ねた。
彼等の話によると確かに福原から兵の数や舟の数が減っているようなのである。
福原から西へと去っていくものが後を絶たないらしい。

さらに福原より西から来たものも集めた。
すると淡路、伯〇(〇=老の下に日ほうき)、讃岐、伊予などの西国で兵を起したものがあるという。
近く福原から兵がやってきて戦乱になるだろうとの噂もある、と。

義経は考えた。
在地豪族間で紛争のない場所などない。東国もそれは激しかったが西国も同様であろう。
西国の豪族で平家に従って福原にいるものたちは平家の帰京の際に功績を立てて
平家の後ろ盾を得て在地における力を拡大しようと図ったのだろう。
だが、平家は福原に留まって中々都に入らない。
福原滞在が長引いただけ本領を離れて平家に従軍する期間が長引く。

その隙に平家に従軍した者たちと敵対する勢力が蜂起したのであろう。
さらに、義仲を破った鎌倉勢の存在が蜂起したものたちを後押ししたのであろう。
その蜂起はそれを鎮圧する為に平家に従軍したものたちを国に戻らざると得ない状態へと追い込んだのだろう。

義経は鎌倉から付き従ってきた中原親能に何事かを告げた。
親能は頼朝に仕える文官であると同時に都の公家中納言源雅頼の家人でもある。よって親能には都に知り人が多い。
その親能の人脈を使った。
数刻後都から幾人かの人々が西を目指して走り去っていった。

やがて義経の都の宿所に兄範頼が現れた。
その二人の元に勅使が現れる。

その勅使を迎え入れた範頼と義経の元に「宣旨」が下された。
「応に散位源朝臣頼朝をして前内大臣平朝臣以下党類を追討せしむべき事。

右左中弁藤原朝臣光雅を伝へ、左大臣が宣する。勅を奉る。
前内大臣(平宗盛)以下党類、近年以降専ら邦国の政を乱る。
皆これ氏族のためなり。遂に王城を出て、早く西海へ赴く。
なかんずく山陰山陽南海西海道の諸国を略し、偏に乃貢を奪取す。
これが政途を論ずるに、事常に絶えたり。よろしくかの頼朝をして件の輩を追討せしむべしといへり。」

それから土肥実平、梶原景時、安田義定らも義経の宿所に集まり福原の平家の矢合わせ(戦闘開始)は二月七日と定められた。

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近江に陣を張る範頼の元に今回の出陣に関する軍議が開かれることとなった。
集まったのは、範頼、義経、土肥実平、梶原景時、そして安田義定。
この坂東から来た面々に加えて摂津国住人多田行綱も加わる。

最初に都に残る人々がいることが確認される。
甲斐源氏の一条忠頼と加賀美遠光が都に留まり、都の警護をすることとなった。

ついでいかように福原に攻め寄せるかということが議題に上る。

その福原についてそこの地勢に明るい多田行綱が説明をする。

「福原に入る入り口は三つござる。生田、一の谷、そして山の手。」
行綱は図面を広げて説明する。

「この三箇所から同時に攻め寄せるがもっとも上策かと存ずる。」
その説明に将たちは一斉にうなずく。



「この生田は山陽道に沿いにある。故に大軍を率いて行くには最も都合が良い。
一の谷、山の手は山間の道を抜ければ回りこめる。
ただし山間の道ゆえに大軍が通るにはいささかの支障がござる。
よって、生田と同刻に矢あわせをするためにはあまり多くの兵を引き連れることはできぬ。」
この話にも一同はうなづく。

「そしてもう一つ、この山の手、一の谷に進む山間の道の要衝にはすでに平家が陣を張っていることが考えられる。
山の手、一の谷に行くためにはここを通り抜けなければならぬ。」

図面の「三草山」と記された場所を多田行綱が指差した。
「搦手はこの三草山を落とさねばならぬのだな。」
と誰かが言った。



その後しばらく軍議は続いた。

この軍議でまず陣分けが決まった。
生田口を目指す大手の大将軍は蒲殿源範頼。その軍目付には梶原景時。
大手には多くの坂東の武士がつき大人数で進軍する。

搦手はまず三草山を目指しその後二手に分かれる。
一つは、甲斐源氏安田遠江守義定が率いて山の手口をめざす。この山の手口に通じる道は難所が多く道も分かりにくいので
地理に明るい多田行綱が同行することになった。
そしてもう一つはさらに西へと迂回して一の谷口を目指す。
その一の谷口を率いるのは源九郎義経。その軍目付には土肥実平がつく。
この搦手には、土肥、三浦といった相模の武士そして乞うて搦手に回った武蔵の小豪族
そして新たに鎌倉勢に与力した畿内の武士達が従うことになった。

そして、具体的な矢合わせの日は、正式な宣旨の発令を待ち追って定めることとした。

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「間もなく平家追討の宣旨が下されます。」
景時が範頼に対してそう告げた。
「そうか・・・で、鎌倉殿のご意向は?」
と返すと
「先ほど早馬が参りました。
鎌倉殿の仰せでは平家を追討するにせよ、和睦するにせよ院のご意志ならびに朝議に従えと。」

範頼はしばらく景時を見つめていた。

「では、出陣となるな。」
範頼はぼそっと言った。

「あと少々知らせがございます。
それと摂津国の多田蔵人殿が吾等に合すると由にございまする。
多田殿の下知により摂津国の住人が多く我等に加わるとの由。」
「まことか?」
「はい。」
多田蔵人行綱は摂津国の有力者である。
彼が鎌倉勢に与力してくれるならば心強いし、摂津国の兵が加わるのは兵力に心配のある鎌倉勢にとって大変ありがたい。

「それから、比叡山も我等を援護してくれます。ここにおるのが比叡山の出の武蔵坊。」
そういって振り返る景時の背後に巨大な僧侶が控えていた。
武蔵坊弁慶と名乗るこの僧は比叡山出身の僧で現在は義経に仕えている。
彼は比叡山に意向を範頼に告げる。
「比叡山は院のご意志を尊重します。そしてまた院のご意向を受けて出陣する鎌倉勢を支援いたしまする。」と。

比叡山、南都、そして畿内の有力武士の一部か鎌倉方に同意する。
このことは福原へと出陣する鎌倉勢への大きな助けとなろう。

福原への出陣━━その噂を聞きつけた近江にいる鎌倉勢は急遽熱気を帯びる。
武具の手入れに一段と力が入り、馬のいななきも一段と高いものとなる。
そのような中、範頼の元にしきりに現れ何事かを申し出るものがあった。
熊谷直実や平山季重などの武蔵の小豪族である。
熊谷らは範頼、そして軍目付の梶原景時に要求する。
「今回の出陣は搦手に加わりたい、と。」

彼等の言い分はこうである。
大手の戦い方は大勢を率いて正面から敵と戦う正攻法である。
そのような戦い方では数が物を言う。
ということは、鎌倉勢の中では兵を多数を引き連れることの出来る大豪族の方が功名手柄を立てる機会が多く、熊谷直実らのような小豪族は手柄を立てる可能性は低い。

だが、少数で敵の意表をつく戦いをすることがある搦め手ならば御家人本人と家族と数人の郎党しかいないような弱小豪族でも功名手柄の機会がある。
そのような事を考え熊谷らは搦め手に加わることと願っているのである。

その話を聞いた範頼と梶原景時は搦手に彼等が回ることを了承した。

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