あけましておめでとうございます。
無事に新しい年を迎えることができました。

本年もランダムな更新になると思いますが
お付き合いいただけましたならば幸いに存じます。

本年もよろしくお願いもうしあげます。

平成二十二年 一月一日
  さがみ
一方ときの声高らかに三草山に攻め込んだ鎌倉勢は敵の手ごたえの無さに拍子抜けしていた。
逃げ遅れた兵たちの首を上げたものの、殆どが抵抗せずに逃走していくのである。

鎌倉勢が攻めあがった時には敵の主たちたるものがすでにいなかった。
鎌倉勢の戦いは残存者の掃討のみで終わった。

とにもかくにも三草山は陥落した。
そしてこの陥落が後に一の谷の戦いと呼ばれる戦において鎌倉勢にとって有利になることを決定付けたといっても良いだろう。

この陥落がもう少し遅ければ大手の生田口と同刻に山手口、一の谷口で戦闘を開始することが出来なかった。
進軍する経路が別々となるため大手搦手がそれぞれに進軍を始めたならばお互いに連絡を取ることができない。
よって途中で矢あわせの時間の変更の連絡はできない。
しかし何が何でも二月七日の同時刻には三箇所で同時に戦闘を開始しなければならない。
何らかの事情で搦手軍が三草山に搦手が釘付けになっていたならば、一の谷の戦いを呼ばれる福原での合戦は生田口のみで戦いが行なわれただろう。
そうなると平家はその生田口にのみ全力を注げばよく、その一箇所だけの戦いが長期化すれば畿内の誰かしらに背後を衝かれていた可能性が全く無かったとは言い切れない。三草山が落ちたことにより、生田、一の谷、山手の三箇所で同時に戦局を開くことが可能となったのである。

その意味でもこの三草山が短時間で攻略されたのはこの戦いの大きな分岐点になったともいえよう。

この三草山の戦いが行なわれていた頃、山陽道を西に進んで福原に近づていた鎌倉大手軍は陣立てを行なった。
範頼に従う御家人たちに夫々攻め込む場所を指示する。
戦場が広範囲に広がるため、夫々の御家人が夫々に郎党を率いて戦わせるのが最も効率的なのである。具体的な戦闘方法は各御家人にまかせる。
ただ範頼は一つだけ指示をした。
敵は逆茂木を設え堀も掘っている。
くれぐれもそれに用心せよ、と。

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三草山の資盛たちが炎に気が付く少し前、その手前にいた鎌倉勢搦手は三草山攻略の方法を探っていた。
搦手軍の将源義経と安田義定に伊豆国住人田代冠者為綱が進言した。
「夜のうちに大松明をつけて攻め込みましょう」と。
大松明とは戦場となる近くの民家などに火をつけて敵方に攻め込む方法である。
この作戦に軍目付の土肥実平は大きく同意した。
安田義定も異存はないようである。
経験豊富なこの二人の意見に若い義経も同意した。

作戦は直ぐに実行された。
三草山に近づいた。
彼の地に住む住民達は家から追い出された。
無人となった家屋敷に火が放たれる。

火の乱舞が始まった。
手に松明を持った武士は次々にそれを投げ入れ、火がともされた矢が次々に放たれる。
炎の乱舞は民家に留まらず、木や草にまでにも及ぶ。

山は夜とは思えぬ不気味な輝きを放つ。

一方この炎をみた平家方は動揺した。
一同はまず思った。
━━ 早い!
と。

鎌倉勢の来襲はもっと後、と考えていた。
平家方が考えているより早く鎌倉勢が到着してしまった。
土地に詳しいものが案内についているため鎌倉勢の進軍が思いの他早く進んだことを平家方は知らない。

次に浮かんだのは
━━ どうするのか?
そいうことである。
今現在、和睦か鎌倉勢との戦闘か議論を戦わせている最中なのである。

その方針もまだ決していない。

郎党達が指示を仰ごうとするが、小松一族の公達たちの意見がまとまらず命令が中々下されない。
そうしているうちに炎がどんどん近づいてくる。

浮き足立った者達は早々に陣を離れた。
それを見た者達も後を追うように陣を離れる。

議論に熱中していた公達たちも自分たちの身の処し方を考えなくてはならなくなった。

小松一族の公達たちはそれぞれ自分たちの信じる道を選んだ。
資盛、有盛、忠房は播磨国高砂へ向かい舟に乗っておのおの思い思いの方向へと去っていた。
資盛はその後一門に復帰したとも、筑紫に向かって彼の地の平貞能と合流したとも言われる。
忠房は紀伊国へ向かった。
一方兄たちが船出したのとは対照的に末弟の師盛は福原に戻り一門に合流した。
師盛はこのときまだ十四歳だった・・・

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