1945年3月10日、敗戦の約半年前に東京大空襲があり、10万人以上の死者が出たことは、ほとんど世界に知られていない戦争の事実です。東京に住んでいた住民をだれかれ関係なく無差別に殺戮したこんな犯罪が、世界の歴史から抜けてしまっていることに、納得がいかない気持ちをずっと抱いていました
先月のイベントで、アーサー・ビナードさんがその点を指摘された時、外国生まれの方できちんと理解している方がいらした、と感動を覚え、是非日本から外国へ、この残虐殺戮があったことを発信して欲しい、と願うばかりでした。
アーサーさんはアメリカの世界史の授業で、広島の原爆は取り扱っても、東京大空襲に触れることはなかった、と話していました。私もアメリカの友人達に話したことがありますが、勿論皆知りませんでした。残念ながら、大空襲を経験している人生の先輩方は、高齢かすでにお亡くなりになっています。それならば残された私達が、日本で世界でこの事実を伝え続け、2度と同じ悲しみを引き起こすような戦争をやってはいけない、と発信していかなくてはならないんだと思います。
前回のブログに書いた原子爆弾は、人類史上初めての核兵器であり、落とした直後の恐ろしいほどの殺傷力と、その後世代を超えて人体へ及ぶ影響、後遺症のために、世界中の注目がありました。しかし、見落とされている東京大空襲で落とされた焼夷弾の威力は非常に強力で、B29が1万メートルの上空から38万発強を約2時間半の間に落とし、死者は約11万5千人、負傷者は約15万人と言われています
アーサーさんは中身が空洞の焼夷弾を持たせてくれました。この筒の中に38発の爆弾が入いり、上空から落とすと途中、約700メートルの高度で、その一発一発がばらけて投下される。焼夷弾の重さは約2キロで、中が空洞と言っても、すっしりと手に鉄製の重みを感じました。実際には一つの焼夷弾に38発の爆弾を入れ込むので、重さは200キロ超えになるそう なんと、東京大空襲では約1700トン以上とも言われる量の爆弾を、1万メートル、或いはそれ以上の高度の上空から、東京に30メートル間隔で落としたそうです。アーサーさん曰く、この量は5トントラックにすると380台分、と。
10万人以上の無差別殺戮、「単独の空襲での犠牲者は世界史上最大」と言われている東京大空襲について、もっと世界が知るべきだと思ってきました。原爆は勿論のこと、日本に起きた酷い戦禍のことを共有し、二度と戦争を起こさない方向に、世界が歩んでいかなければ、人類の進歩なんてないですね。
焼夷弾の熱さは千数百度から2千度くらいまでにもなるそうですが、イベントでアーサーさんとジョイントでお話をして下さった杉山さんは、江東区の被災した道路の写真を見せてくれました。焼夷弾に38発もの沢山の爆弾が内蔵されているので、地上での落下地点の間隔は一メートルあるかないかのように見えました。あまりにも地上にいる人間に高い命中率を持つ凶器的兵器。数年前に同じ場所を訪れたら、前の道路の上にアスファルトが敷かれて新しい道路になっていたそうです。「オリンピックを意識してかな?」と聴衆のどなたかが発言されてましたが、歴史の悲しい部分もちゃんと残して後世に平和の尊さを伝えた方が良いのになあ、と寂しい気分でした
そして、もう一枚の写真は、やはり江東区で、いくつもの墓石が焼夷弾の熱で崩れているものでした。原子爆弾の場合、熱戦により石に影が映ることは知られているけど、石が溶ける?というのは相当な熱量なはずと話していました。この説明は原子爆弾と焼夷弾を比較しているというよりも、如何に世界が知らない東京大空襲での大量殺戮兵器が非人間的で酷いものであったか、を伝えたかったのだと思います。普通の人間からしたら、50度でも低温火傷を負いますから、ましてやそれ以上の熱量を人間に使うなんて論外。そして、恐ろしいことに焼夷弾の中身は油脂が入っていたので、水をかけても火を消せなかったんですね。人類の生活圏にあってはならない兵器、それを使わざるを得ない戦争を引き起こすなんて何と愚かなことか、と思います。
アメリカは、日本が駐留していたサイパン・グアムなどを占領し、シメシメ、とすでに日本軍が作った滑走路を充分に活用して、日本への攻撃を有利にしました。東京は1944年11月から終戦まで百回以上の空襲を経験して、大規模なものは3月10日と、その後にも4回あったそうです。目的物を破壊する、というより、町を焼き払うのが目的だったと言われています。米空軍司令官のカーティス・ルメイは、東京だけでなく、名古屋・大阪・神戸と他の大都市にも焼夷弾を落とし続けました。そして最後は原子爆弾。(本当はその前にパンプキンという原子爆弾の前の実験兵器も使われていたそう) アメリカ側には、「戦争をこれ以上長引かせたくなかった」、「原爆を落として戦争を早く終わらせたかった」という屁理屈のような口実があります。アーサーさんは、早く終わらせたかったなら、始めから千代田区千代田1を狙ったでしょう、と。いやいや、長引かせたかったんでしょ、と。この戦争で、アメリカの主要産業(ブキ)は確固たる位置を築きましたからね。
1899年のハーグ陸戦条約では無差別攻撃を禁止していて、日本への攻撃は民間人を巻き込んだ大量殺戮だったので、日本は賠償請求権を行使しても良かったのに、サンフラン平和条約で日本政府はいとも簡単にそれを放棄し(これだけでも驚きですが)、何とその後、無差別攻撃を指揮した前述のカーティス・メイに佐藤内閣が勲一等旭日章を叙勲しています。は~???ですが、その理由は「航空自衛隊育成の協力」をしてくれたというです。1964年12月、オリンピックが終わって間もない頃ですね、カーティスに授与したそうです。
戦前のフリーメイソンの定義をブログに載せましたが、戦後はすっかり「傀儡」になり下がった我が国の運命がよ~く見えてきますね。
敗戦 (1945)前のフリーメイソンの定義 | chopinのブログ (ameblo.jp)
東京大空襲に関して、その頃小学生で手記を書かれた方の資料が手元にあります。10数年前、友人のお子さんが通っていた中学校の教諭だった方が纏めた手記です。こちらも近いうちにブログに載せたいと思います
大空襲を受けた国民に、その頃の首相は「都民は空襲を恐れることなく、ますます一致団結して奮って皇都庇護の大任を全うせよ」と呼び掛けたそうです。これも、今の時世と重なるところはないでしょうか?