「いのちのはじまり」の巻 | ユッキのムダさえない日常

ユッキのムダさえない日常

メガネ茶髪ジーニストの陽気な陰キャ、ユッキです。
常々なんで?と思うこと、実際にやってみたこと、主に体験談を楽しく書いております。
ごゆっくりどうぞ☕︎

いとこの話をする。

いとこは3つ下で、
お正月やお盆など、
親戚がじーちゃん家に集まると、
自然と一緒に遊ぶ仲だった。
トランプして遊ぶことが多かったが、
探検隊ごっこで
じーちゃん家の2階の部屋を物色したり、
遠い親戚がいなくなると、
もう良い子ぶらなくていいから、
よくはしゃいでいたんだ。

そんな彼女も2年前に結婚。


置いてきぼりをくらった。笑


大人になってからも
できるだけ時間を作って、
会って食事したり、
話したりしていたが、
最後に会ったのが昨年の今頃だった。


そのときも恋愛とか人生観とか、
結婚について色々聞いて、
また自分の相談を聞いてもらった。



今年の年賀状を出して、返事が来て、
夏は残暑見舞いを出して、返事が来て、
そのときに彼女の妊娠を知ったんだ。



母かよ。
ママかよ。
ママンかよ!



そんな真っ赤な衝撃を軽くかわして、
「私は私のペースだし」
と自分に言い聞かせていたら、
ついにメールがきた。



生まれました、と。


彼女は子を「産まれた」わけで、
赤ちゃんはこの世界に「生まれた」のだ。



ニュアンス伝わる?


生む+られる=生まれる
産む+られる=産まれる



つまり、生命が、
いのちあるものが
うまれてくることは、
それだけで尊敬語だったのだ!!


地球や宇宙の営みのなかで
基から組み込まれた
事務的な仕組みで
当たり前の情景かもしれない。


クマでもヘビでもダニでも、
うまれてくることは
崇高で、有り難きことなのだ。

もちろん、なかには
この世界に現れる前に消えてしまった
大切ないのちもある。
そのいのちも、
うまれてくるまえに
確かにお腹に授かった
代わりのないいのちだから、
名前までわからなくても、
いつかどこかで会えたかもしれない
子を想い、お祈りしよう。


と、たったいま思った。


ブログを書きだしたら
こういうことを書こうという思惑とは
まったく違うほうへ内容がひとり歩き。
2ちゃん風にしたかったのに。笑

次に会う彼女は
もうただの人妻じゃない。
母親の顔をした新しい彼女なんだ。
そう思うと、子どもちゃんと彼女に、
よく頑張ったね、ついにスタートだね、
と伝えたい。

この世界にお誕生されて、
おめでとうございます。