昨年からまたバンドを始め、メンバーとのコミュニケーションでも常にそういうことを感じながら、相手を認めより善く理解し活かしたいと強く思う自分がいて、その上で、音楽という技術的、感覚的に多岐に渡る情報をやり取りして、時に学び真剣に伝えることが大切だと思う。
それぞれに趣味趣向が違うものだから、各自の感性を生かしながら、ひとつのサウンドを創り上げる時、どうしても自分の感性を通したいと思う心との葛藤があり、僕がいつも思い悩むのは、果たしてこれを通してもいいものかということ。
普通にひととのコミュニケーションでは、いくら違いが明確になっても、それで相手の考え方や思うところを認識し理解していけるわけで、その違いが関係に大きく影響することはない。
たまに意地を張るのも仲が良くなったバロメータみたく、そういった衝突はある意味歓迎すべき儀式みたいなものでもある。
それでも、もし相手が知り得ないことで間違ってるのではと判断した時、どこまでが親切で、どこからがお節介なのか、そのへんのことが僕にはわからない。
それは、その昔、ひとそれぞれにそのひとの考え方で生きてるのだからと、薄情にも、ひとはひと自分は自分というのを信条にしてたというか、ひとそれぞれに考えがあって行動しているのだからと無頓着でいた自分を長くやっていた。B型だからと言えば怒られるかも知れないけど、自分も好きにしたいから相手様もどうぞご自由にという感じでもあったのだと思う。。
もちろん今では、そこまで極端に考える自分ではないのだけれど、合せて出来うる限りを尽くしたいと思う自分がいることで、余計にどうしていいのかわからない時がある。
ひとの話しはじっくり聞けるし、それなりの受け答えもする...。それでも自分の中にあるお節介リミッターだけが、未だに働こうとするのをコントロール出来ずにいる感じなのだ。
ちなみに、、これが普通のコミュニケーションだからまだマシだということになるのが、、、
恋愛に関してである。
これに合せて、欲や甘えがはいると、、、
お節介リミッターが名前を変えて各所に配置されてしまうことになる。
このリミッターを外せるかどうかということ、それが僕にとっての相手を理解するということ、もちろんこちらも理解してもらえたという実感をもって、わかり合うことなのかなと考えるのである。
なんとも小心者の戯言みたくなってる気もするけど、簡単にいえば、ただただ、気にしいなだけと、、
あ~めんどくせーと、そう言われるのを承知の上で書いてみましたが、、
有り難くもそういうことをわからせてくれるひとに出会えたこと、、
困難と隣り合わせであっても、素晴らしい音楽が響き始めた実感が、、
それこそが幸いなのかなと思えた誕生日でありました。
そしてまたこの1年も、その時その瞬間を大切にしながら、
また新たな自分に出会えるやも知れぬを初心に掲げ、
楽しく元気に歩んでいきたいと思います。
。。。