
この上なく温かなところにいると、いつしかそれが当たり前になって、ちょっと肌寒くても嫌だなぁって思うひとの気持っていったい....。
いつも快晴の青空を見てると、その抜けるような蒼の素敵も心に響かなくなったり、逆に溢れる陽の光をありがたく思える時は、ちょっと気持が辛かったりする。
楽と苦、どう考えても楽がいいはずなのに、その楽はたぶん楽以外になにも与えてはくれないのかもしれない。
何かをなし得るひとの力も、じつは苦がその源になっていて、ひとの心は揺れてこそ始めてみずからの殻をやぶり、本来その人が持つパワーを発揮するように設計されているように思う。
もっと言えば、幸せだという感情さえも、きっと苦がないと感じられない感情なのだと思う。
山の頂きに立って周りを見渡せばきっと誰しも感嘆の声を上げ、人によってはそれまでの苦労を胸に溢れんばかりの感情のままに涙するだろう。でも、そうだと知っていてもすべてのひとが山に登ろうとはしない。その前にある苦労を考えたり、もっと簡単に同じようになれる方法はないかとそれを探す。
実際に山に登らなくても、ひとの心は観念だけでは勝手に幸せを感じられるようにはなってないから、何か本当だと思えるものに出会うとかなにか心身の行動が伴わないと、心が揺れたりもしない。
僕もこれまでひたすら楽を求めて、それを楽しいと考えていたし、何よりも一度手に入れた楽を決して手放したくなかった。
楽しいんだからと、みずから揺れようとしなくなった心を持て余すことがあっても、それですべてOKなんだと自分にも言い聞かせてもいた。
それがいま、その楽を手放したことで、やはりそれは違うんだと気付かされた。
安易に頂にいるかのような感覚に寝ぼけて、実際には頂きに向って一歩一歩苦しみながらも歩むことを忘れていたんだと思う...。いつでも出来るは、いつまでたっても出来ないと同じ。
今日出来ないと明日も出来なくて、いまやるか、やれるかどうかなんだと思う。
寂しさやどうしようもない虚無感は、楽に依存し溺れたからこそのフラッシュバック禁断症状みたいなもの。それこそがひととひとの繋がりを考えずみずからの殻に閉じこもるもっとも自虐的な感情だし、逆にこれを乗り越え理解し、排除するんじゃなく常に心に留め置くことで、よりひとのとの同苦、深くわかろう、わかりたいと思えるビタミンのようなものにもなり得るのだと思う。
そういう意味で四季のある日本って素晴らしいなと思う。
苦楽共にじゃないけど、すべての季節にそれぞれの楽と苦、
巡ってはまた巡り、心を揺さぶられて慈しんで。。
善と悪、苦と楽、すべてみずからの心のなかに在し、
臆病と勇気の闘いの結果が楽であり善なのだと思う。