ひとと話したり、ネット上やブログなんかでも、いまの日本の社会を憂慮する声がありますが、確かに、TVニュースを騒がしていることは尋常ではないことも多く、社会が良く変化してると言うひとは少ないと思います。
昔から、”今の若者は~”という言葉がよく使われて、大人からは異端視されてきたことはどの世代でもあった筈ですが、本当にそうなのでしょうか?
ある意味、世代間の感性が違うことはごく当たり前のこと、昔は子供と大人の境はしっかりしていて、良くも悪くもこれを越えることなく、毅然とした不文律があったような気がします。
それでも、心はしっかりと繋がっていたようにも思えますし、変に媚びたりすることなく、互いに多かれ少なかれその間には敬意の念が存在していたようにも思えるのです。
だからこそ、煙たいながらも若者は大人の言うことを聞き、また意見を求めたりもしていたのだと思いますし、逆に若者のすることを時に微笑ましく見守り励まし勇気づけたりもした筈です。
では、いまの社会はどう変化してきたのでしょう。
きっと僕ら世代に大きな責任があるんだと思います。
やはり子は親が育てるもの、子供はひとりでは大きくなったりはしないし、ほとんどすべて親たち、大人の責任だと思うんです。
僕たちの親はなりふり構わず働いていた世代でした。
子供に構ってられない社会だったし、すべてに於いて余裕が無かった時代でもあったのでしょう。それが生活に余裕ができ、遊ぶことが市民権を得て家族で遊ぶことが一般化してきたと共に、親子の間にただ生活をする以上のコミュニケーションが必要になってきたのでしょう。
昔なら、父と子が少ない時間たまにするキャッチボールで、信頼関係がしっかり育まれていたのですが、有り余る時間を共にすることで、逆に親と子と、子供と大人の境があやふやになり、ややもすると遊びが親子の共同行為になっていってその関係が質から量へ、目に見えないものから普通の友人関係へと変化していったのではと思えてなりません。
前に怒るということについて書きましたが、親が子を怒ると言うことも、ある意味最大の変化をして、かつ今の変化の根源に大きく影響したことかもしれません。
先に書いた一緒にいる時間の変化が悪影響して、昔ならそんなに怒らずとも、忙しく頑張る親の背中を見て子供なりに考え学んでいったものが、どうにも一緒にいる時間の多さ故、親子の感情がなんの根拠もなくぶつかることが多くなり、また大人である親の理不尽なる振る舞いが子供の心に影を落とし、親の実感もなく子供を怠惰な方向へ導いているように思います。
僕は最近こういう話しになると必ず思うことがあります。
それは、いったい誰が子供を育てているのかということです。
今の子供、若者のありようは、決して学校や社会から学んだものではないということです。
すべて親から、小さな頃からの日々の生活で見て感じて学んできたことなのです。
はたしてどれだけの親がこれを実感していることでしょう?
それは、結果を前にして「こんな子に育てた覚えは無い!」「内の子供に限ってそんなことする筈はない!」などと言い切る親がいること自体、何をか況んやなのです。しっかり生きる親を見て質実を学ぶべきところへ、合理性を優先させた要領だけを見せられるんだから、自然の摂理と同等にごく当たり前の結果となっているのです。
果たして、子供は被害者なのです。
それをあたかも、勝手にそうなったみたいに言われて、重ねて可哀想な被害者なのです。
こういう話しを書き始めると、たぶん終わらなくなります(^-^;
また機会があれば思うことを書くとして、、
それでも最近若い人と音楽で絡むことがあって嬉しい事があります。
それは、そういった呪縛から自力で抜け出ようとする賢明な人達が多くなったということです。ひとつ良い点だった、”自由に育てられてきた”というところ、その利点を最大限に生かそうと、みずからを律し視野を拡げ、日々すべてのことから学ぼうとする姿勢。それが見えると本当に嬉しくなります。
どんなことでも、みずからを上に置かず、すべてを平たく見ようとし、相手を理解しようと努力する。そういう感覚が、若い人とひとの間で連鎖を始めてるような気がして、ひとという生き物の偉大さ、ひとの心の不思議さを見せつけられてる気がして....、無責任社会の一端を担ったであろう僕の心を、少しホッとさせてくれるのです。
ひとも生き物です。目に見えぬとも少しづつ変化しながら伝播していくDNAと同じように、ひとの心の有り様もそれと同じように変化していくんだと思います。
書いてきた社会の変化の中でも、世界で活躍する日本人が多くなったことも事実ですし、功罪合せてより善い方向へ進んでいくと信じて、みずからもより隣人に思いを馳せながら、出会えた幸いを大切にして、ちょっとでも見せれる背中を持ち得たいものだと思います。