モラハラ実父からの脱却・絶縁~和解~そして別れ -10ページ目

モラハラ実父からの脱却・絶縁~和解~そして別れ

実の父親からモラハラを受け、機能不全家庭で育ってきた俺。
幾度となく繰り返される衝突、俺の結婚後、5年間の絶縁、和解~そして5ヵ月後の死別。

そんな、俺が長年抱えてきた苦しみ、それを克服して強みに活かす方法、モラハラから脱却した経緯などを書いていきます。

物心つき始めた頃から徐々にわかり始めたこと、それは「俺と親親父との関係性は他の家庭とは何かが違う」というものだった。


ここでは、俺が記憶している幼少期の親父との関係性を、心の傷となった思い出、良い思い出、両方書いていきます。



■未就学児の俺に対する恫喝


幼稚園に入るまでの頃、親父は俺にほとんど無関心だった。俺が何をしていても全く見向きもせず、唯一、俺を視線に入れるのは「うるさい!静かにしろ!」と大声をあげて恫喝する時だけだった。


親父は毎週末買い物に出かける習慣があったが、その際は必ず兄を連れて出かけて行った。俺は親父と一緒に外出する兄が羨ましくてたまらなかった。


俺が幼稚園に入る直前の頃、親父が俺も一緒に買い物に連れて行ってくれると言い出し、親父との初めての外出に、俺は心を躍らせていた。


しかし、いざ外出すると、初めての親父との外出にはしゃいだ俺の行動一つ一つに対して、その度に親父は恫喝と言える程、大人でも驚くような大声を出して俺を叱り続けた。


何に対して怒るかと言えば、俺が水溜りの上を歩いたり道を走ったり等、親として当然注意すべきことだったが、まだ幼く物事の分別がつかない俺にとっては、何をしてはいけないのかが全くわからないため、親父の恫喝がいつ飛んでくるかわからず怯え続け、終始大泣きしていた。


また、兄とは常に手を繋いでいるのに俺とは全く手を繋いでくれない態度が俺を邪魔者扱いしているように思え、幼い俺にとっては非常に辛い時間だった。


その後、親父が母に対してだけでなく兄や俺に対しても恫喝することは日常化し始め、週末は怯えて過ごす時間が多かった。特に、知的障害者である兄は親父との接し方が非常に下手で、まだ知的障害者であることが発覚していなかったこの頃は「お前はなんでそんなに悪い子なんだ!」と毎日のように兄を恫喝していた。


親父の恫喝を具体的に述べると、大人でも恐怖を覚えるような大声を出し続け、新聞紙を丸めて棒状にしたものや灰皿や茶碗などを顔や身体の近くの壁などを思いっきり叩きつけて大きな音を出し恫喝し続けるといったものだった。

親父の恫喝は一度始まると20,30分は続き、長い時では1時間から数時間続くこともあり、その光景は非常に凄惨なものだった。


■安定期の始まり


幼稚園に入った頃、親父の恫喝癖は相変わらずで、俺は親父が家に帰ってくるのが苦痛で仕方なかった。そんな折、「今日からパパは海外出張に行く」と母が俺に言った。

俺はいまいちパッとせず聞き流していると、母が「だから、来週までパパは家に帰ってこないのよ」と言った。その言葉を聞いた俺は嬉しくてたまらず、思わず微笑んでしまった。


俺の微笑みを見た母は笑いながら「パパが居ないとうれしいの?」と聞いた。俺は微笑んだことを親父に知られたらまた恫喝されると思い「そんなことないよ」と必死に言い訳した。


しかし、その日の夕方、母が海外電話で、俺が微笑んだことを親父に言った。俺が電話にかわると親父は開口一番に「おまえはパパが居ない方がいいのか?」と笑いながら言った。俺は必死に言い訳したが、俺の言葉は親父に届いていなかった。俺はまた恫喝されると思い、恐怖でいっぱいだった。


翌週、親父が帰国し家に帰ってきた。俺は恫喝される恐怖に怯えながら親父と対面すると、意外にも親父は笑顔だった。そして「ほら、お土産だよ」と言って、いくつもの外国製のおもちゃをくれた。初めて親父に恫喝されなかったことが嬉しくてたまらなく、とても幸せな気持ちになった。


親父が海外出張から帰ってきた週末、恫喝の恐怖に怯えていた俺は、いつものように腹痛を起こしていた。しかし、その日の親父はまるで別人のようで、俺たちを全く恫喝しなかった。次の日も翌週も、親父の恫喝は一切止んだ。

まだ子供だった俺たちは、親父に怒られることも多々あったが、怒る際の罰は基本的に説教とお尻ぺんぺんだけであり、大声を出して物を叩きつけるという姿は一切無かった。その姿は他の家庭でもよく見られるごく普通の光景だった。外出した時にはよく肩車をしてくれ、親父の愛情をたくさん感じていた。


この時期は俺にとって本当に幸せな時間だった。親父のことを大好きになり、生まれて初めて親父と一緒に居るのが楽しいと思えるようになった。


■「よその子になれ」~言葉の暴力の始まり~


5歳になる頃、親父の恫喝癖が日々少しずつ再発し始めた。一日の中で大声を出す回数が徐々に増え、俺が年長の6月頃には以前の恫喝癖が完全に戻っていた。


しかし、海外出張の一件以来、親父の愛情を知った俺は親父に対しての安心感が芽生えていたのか、以前ほどの精神的苦痛は感じていなかった。以前は、恫喝されている最中は大声で泣き叫び必死に許しを乞うという状態だったが、この頃は、ただ無言で泣き続けるという状態だった。親父はその姿が気に入らなかったのか、恫喝の度合いを日に日に上げていった。


そんな折、またいつものように親父の恫喝が始まり、俺はいつものように無言で泣き続けていると親父が突然大声を出すのを止めた。そして「もういい。お前みたいな悪い子はうちの子じゃない!もう出ていけ!!お前みたいな子なんか、もう俺の子じゃない!よその子になれ!」と言い出した。その言葉を聞いて俺は青ざめ「よその子は嫌です!パパの子がいいです!もうしないから、許して下さい!」と懇願した。その姿を見た親父はここぞとばかりに「お前はよその子だ」と丸一日にわたり言い続けた。

この日を境に、俺の親父に対する恐怖心が以前にも増して再び芽生えた。


その後、親父が怒る時は恫喝から始まり、数十分して一通り恫喝が終わると一転して落ち着き払い「お前はもうよその子だ」と言うのが習慣になった。「よその子」と言い始めてから許してくれるまでが1時間から数時間、長いときには丸一日にわたるため、親父が怒る時間が以前の倍以上の時間になった。幼い俺にとってそれは精神的にあまりにも辛く、親父に怒られた後はいつも憔悴しきり長時間ぐったりとしていた。


「よその子」と言う癖が始まると、親父が俺を叱る頻度は劇的に増えた。今までの恫喝は家の中でしか行われなかったが、「よその子」は外出中でも行われるため「食事中、食べ物を親父の服の上に落とした」といった些細なことでも、その都度「よその子」と言われるようになった。


そして、幼い俺でもこれは明らかにストレス発散でやっているだろうと確信できるほど理不尽な理由で「よその子」と言うことが日に日に増えていった。俺は、またしても親父と一緒に居る時間は終始精神的に追い詰められるようになった。



■繰り返される安定期と激高期


「よその子」が始まってから、「よその子」を連発する回数は徐々に増え、俺が6歳になる頃にピークを迎えたが、6歳を境に頻度は徐々に減っていき、ストレス発散と受け取れるような「よその子」は減っていった。


7歳になると「よその子」が始まっても、必死に謝ればいつかは許してくれるだろうという安心感が芽生え、親父と一緒に居ると常に精神的追い詰められるという状態は徐々になくなりつつあった。


そんな折、親父が運転する車に俺と兄が乗っていた時、バックする際に親父が運転を誤って電柱に車を軽くぶつけるということがあった。


電柱にぶつかるという初めての体験に兄ははしゃぎ、キャッキャッと笑いながら「ご~ん!」と何度も言った。俺も面白くなり兄と一緒に「ご~ん」と言って遊んでいた。その間、親父は終始無言だった。

数分後、俺達の車に母が乗ってきた。兄は楽しそうに「ねぇ、ママ。さっきね、パパが車バックしたらご~んって電信柱にぶつかったの」と言った。母が「あらそうなの」と言ったので、俺も「そうなんだよ、ご~んって言ったの」と言うと、親父は走行中の車を急ブレーキで止め俺の方に振り返り「うるせぇんだよテメェ!」と恫喝した。その言葉は、親父がよく見ている任侠映画のヤクザのような口調だったせいか、俺は恐怖心以上に非常に悲しい気持ちになった。しかしその後、親父はまた通常の状態に戻り、家族4人で和やかな雰囲気で車を走らせていった。


そうこうしているうちに車は兄が当時通っていた知的障害児専門の学習塾へ到着し、兄と母は車を降りた。いつも兄の塾が終わるのを待っている間は親父がジュースを買ってくれるのが習慣になっていたので、俺は「今日は何のジュースを買ってくれるのかな」と楽しみにしていた。

すると、さっきまで和やかだった親父の表情が一変し「お前はもうよその子だ」と言い出した。このフレーズを聞くだけで頭が真っ白になり腹痛を起こすのが習慣になっていたものの、この頃には必死に謝ればいつかは許してくれるだろうと思っていたので、いつものように「ごめんなさい、もうしません、許して下さい」と謝り続けた。

しかし、親父の様子がいつもと違い、その姿は以前の「よその子」を連発している時期の親父のように感じた。俺は急に怖くなり「でも、ご~んって言い出したのはお兄ちゃんだよ。なんでお兄ちゃんは怒られないで僕だけ怒られるの?」と聞くと、親父は激高し「なんだお前、そうやって自分の兄弟のせいにするのか!?お前みたいな卑怯な奴はもう、うちの子じゃない!」と言って俺を車から降ろし近くにあるゴミ捨て場に俺を連れて行った。そして「もうお前なんかここに捨てる!お前はここで暮らせ!」と言った。恐怖に包まれた俺は大泣きしながら必死に謝ったが、親父の怒りは止まらず、たまたま近くに居たホームレスの男性を指差し「あのオジサンの子供になれ!一緒に毎日ゴミを食べて生活しろ!」と続けた。俺は今回ばかりは本当に捨てられると思い、大泣きしながら必死に謝り続けた。


1時間以上親父に許しを乞い続けると、兄の学習塾が終わる時間になった。兄と母が合流し、母や兄に会えるのも今日で最後だと覚悟を決めていると、親父の表情は一変し、母に「車の中であまりにも騒ぐから叱ったんだよ」と笑いながら言った。そして、何事も無かったかのように通常の親父に戻り家路に着いた。その後も車をぶつけた一件に関して触れられることは一切なかった。

この時、俺は「よその子」は密室になると激しくなることに気付いた。


その後、

7歳から8歳の間が「よその子」を連発するいわば激高期

8歳をピークに10歳にかけて徐々に落ち着き「よその子」が減っていくいわば安定期

10歳から13歳の間に再び激高期に入るというリズムを繰り返していった。


~後編へ続く~


後編では、幼少期のまとめ、父が亡くなった今(そして、自分が幼稚園児の父親となった今)、過去の出来事を俯瞰して思うことを書いていきます。