小林秀雄 三島由紀夫 対談『美のかたち』再考 | さむたいむ2

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三島由紀夫の『金閣寺』を読んで小林秀雄はあれは「動機小説だ」、「いや小説というよりむしろ抒情詩だな」と評しました。小林の説く小説とは「現実の対人関係」「対社会関係」も出て来なければ小説にはならないというのです。『金閣寺』は「抒情的には美しい所」が出て来るのだが、主人公が「動機という主観のなかに立てこもっている」。つまり「主人公のコンフェッション(告白体)」で書けば、そこに出て来る人物は「主人公の告白の世界の中の人」であり、ドラマが成立しない。だから「抒情詩」になるのだ。

 

三島の小説は「過剰な才能」で出来ていてそれは「おそろしい」ほどのもの。そして「自分の才能をとっても愛しているんじゃないか」と三島にいいます。だから「きみの書いたもの、あれは美の問題ということでなくともよかったんじゃないの。つまり固定観念に憑かれた男の追い詰められていく径路を、あんたは謳ったわけでしょ」とずばり小林は言い当てます。

 

そして小林は「あの小説で何にも書けていないし、実在感というものがちっともない」。しかし「一種の抒情詩みたいなふうに読めば、あれ一つ一つに何か鮮やかなイメージがあるだろう」。そして小林は三島を「新しい横光利一みたいな所がある」「感じ方とか才能の性質みたいなものが」と切り出しています。これ小林独自の批評です。

 

当時三島の文章は「人工的」といわれています。それは実在感がなくイメージの世界が描かれているからでしょう。だからといって「何も書けていない」わけはなく、読者は架空のイメージに誘われるのです。いま私は俗なイメージの小説を幾つか上げることができます。渡辺淳一の『失楽園』、石坂洋次郎の『陽のあたる坂道』など。いわばエンターティメントの小説です。ストーリー性を重視したものでイメージを刺激し、どこにもありえる事をさも大事件のように掲げるものです。

 

しかし三島の文章には安易な表現はありません。美しい日本語で詳細に書かれています。これを「抒情詩」という小林の指摘は的を射ていますが、『仮面の告白』のような「反私小説」を書き得る作家は他にいるでしょうか。三島が小説と同じに戯曲に心血を注いだのはこのためです。役者の演技を形作るのは科白です。また言葉には限界があります。それを補足するのが役者の振りです。演劇の魅力は役者と演出家の協力関係にあり、そのステージを見る観客の存在なくしてありえません。