NHK・Eテレ「100分de名著 三島由紀夫」は何だったのか? | さむたいむ2

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人は死んで、時として”伝説”になる。しかし、三島由紀夫は逆だった。”伝説”なんだから、「へん」であっても構わないのかもしれない。生きている内からその存在が”伝説”であるような人は、存在自体が「へん」なのである。だから「へん」な人が死んだら、その”伝説”も消えてしまう。「同じ時代に生きていた」という以外に、その人の「へん」は、意味を持たないからである。そういうことを、「たやすく忘れられる」と言う。しかし、三島由紀夫は違う。生きている内から”伝説”だった彼は、死んだ後、「すぐれた作品を残すだけの作家」になった。「作品だけになった三島由紀夫」には、生きていた時の”伝説”が当てはまる鍵穴がない。「作品だけになった三島由紀夫」は、生きていた時の”伝説”では解読出来ない。なまじそのエピソードを知っている人は、「三島由紀夫と共に生きていた時代のノスタルジーを語るだけの存在」になってしまう。ということは、三島由紀夫が、自身を隠す煙幕として数々の”三島伝説”を使っていたことの傍証にもなるだろう。

 

これは橋本治の『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』からの引用です。三島邸の庭にある「アポロン像」を見てきた友人が「びっくりした」という矢先、「なにが?アポロン像がチャチだったとか、そんなこと?」といってしまい、友人が目を剝いて、「なんでそんなことが分かるの?」と驚いたという。

橋本は以前から三島邸のこと「変な趣味」と思っていました。別に自分の眼で見てきたわけではないのですが人伝に聞いていたのでしょう。また三島の死後、グラビアでみる機会もあったでしょう。すでに橋本は三島のことを「へん」と見ていたのです。それも容易く忘れることのできない「へん」と見ていたのです。

 

先日の、Eテレ「100分de名著 金閣寺」で私は伊集院光がゲストの平野啓一郎を差し置いて、朗々と自説を語っていることにずっと違和感を覚えていました。この番組はこんなものだったのか、という気持ちと、さぞ平野は自分の役割、自分がなぜ呼ばれたのか分からなくなっていたのではないでしょうか。友人同士の会話で交わす話なら良いのです。視聴者を眼の前にして、主人公の溝口の決心と伊集院が高校を中退した折りの話など比較にも成らないのです。雑談は放送後にして欲しい。

 

あの番組を見たからでしょう。橋本治の「へん」な話が妙に突き刺さったのです。橋本は私より4つ年長で、たぶん東大闘争をリアルに見ていたに違いありません。そしてその後の三島の行動を「へん」に思っていたのでしょう。しかしその「へん」は拒絶ではなく、惹きつけられる何かを見いだしていたに違いないのです。それに引き換え、伊集院は1964年、平野は1975年生まれです。すでに「伝説の三島由紀夫」しか知りません。そして作品から知り得た情報ではその「へん」までを感じ取ることはできなかった。だから仕方なく『金閣寺』の溝口と自分を重ね合わせてたのでしょう。そのことに平野は異論を唱えても良かったのです。しかしこれも読書の一面です。どんな読み方をしてもいいのです。

 

ただ司会者はゲストを差し置いて語るべかざる、です。名著を紹介する番組なのですから。