みたび『小林秀雄 江藤淳 全対話 「歴史について」』を取り上げます。
江藤淳は「三島事件」直後、「日経新聞」(昭和45年11月26日)に『伝統回復あせる』という談話を寄せています。三島由紀夫が自衛隊のバルコニーで「日本の歴史と伝統を回復するために、自衛隊は立ち上がり、憲法改正を目ざせ」といった趣旨の演説を挙げ、三島が回復しようとした「日本の歴史と伝統」とは、一体何であろうと問うています。そして「もし三島氏が。、彼の今度の行動を日本の伝統というものに本気で結びつけて考えていたとしたら、それは悲しい誤解であり、幻影であったとしか言いようがない」と結論づけています。
『花ざかりの森』『仮面の告白』『金閣寺』という素晴らしい仕事を続けてきたといい、『鏡子の家』で、戦後日本の新しい時代の訪れを江藤は評価しました。その後彼はアメリカに渡り、昭和39年に帰国した時には三島はもうすっかり別の人に変わって、「作家の時代は終わり、行動への傾斜が急激に進んでいた」という。アメリカのプリンストン大学で学び、また講師として日本文学を教えていた江藤にとって帰国は浦島太郎のように変わり果てた日本を目にしたに違いありません。三島だけでなく日本全体が「イラ立つ」ていたというのです。
戦後25年、経済復興目覚ましく私たちの生活もずいぶん豊かになってきました。しかし国際政治の場では、日本の発言力は依然弱く、いったい日本はどうなるのだろうと「イラ立ち」っていたのです。
この「イラ立ちは必然的に、同胞のなかに敵を探す行動に移る」と江藤は見ていました。そして三島の行動はこの「日本人が日本の運命をしっかり握れぬ時代」に対するイラ立ちであり、耐えられなかったのではといっています。
もう一つは小林秀雄の『三島君のこと』というエッセイです。これは昭和46年1月に「新潮臨時増刊 三島由紀夫読本」に載せられたもので、事件後「事件」に対して感想を求められ困ったと洩らしています。それは「ジャーナリズムが到底見のがせぬ大事件だろうが、ジャーナリスティックには、どうしても扱う事の出来ない、何か大変孤独なものが、この事件も本質に在る」といっています。
三島とは『金閣寺』を読んで対談した小林です。「非常な才能だと思った。それは何か異様なもの、魔的なものと感じて、それをいったことがあります。自分とは気質の大変違った人だと思って、以後何となく作品を読まなくなり、最近の長編(『豊饒の海』でしょうか?)も読んでいない始末だから、作品について考えを述べる資格はない」といっています。
小林は三島の才能は認めています。しかし「運命と言ったような暗い力」と一緒に三島はいたのではないか。そして「この事件の象徴性とは、この文学者の自分だけが背負い込んだ個性的な歴史経験の創り出したもの」と江藤とは違った見方をしています。
事象面では江藤のいう苛立ち、焦りに見えるでしょう。しかし小林は「気質の大変違った」若い文学者として見ていたのです。そして小林はその「孤独なもの」と感じとれた、当時かなり少ない批評家でした。このふたりに折り合うものはありません。ただ江藤は後に小林のいった「日本的事件」の意味が分かるのです。江藤の自死の謎もこれで分かるかもしれません。彼は脳梗塞に苦しんだのですが「孤独」が彼を死に追いやったと私は考えています。
追記:対談『歴史について』(昭和46年7月)に雑誌「諸君!」に掲載されたのは前回記しました。それ以前、「事件」直近に書かれたものと知って読むとまた格別な思いがあります。