江藤淳と小林秀雄の相違点 | さむたいむ2

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前回に続き『小林秀雄 江藤淳 全対話』について書いてみます。

対談『歴史について』は昭和46年7月の雑誌「諸君!」の創刊2周年記念号の巻頭対談として掲載されています。この『全対話』のなかでも主軸となるものです。

 

小林は当時、雑誌「新潮」に長期にわたって『本居宣長』を連載していました。「歴史について」語り始めたふたりです。当然話題は本居宣長へふれていきます。

 

江藤が「人間の学ということについて考えると、小林さんは『本居宣長』の中に書いていらっしゃいましたね、徂徠に触れたところですが、つまり、どうしても歴史というものについて深く考えないと、なにもわからないんじゃないかとおっしゃってますが、僕もそう思うんです」と話しかけています。これは歴史家が、「歴史上の人物をそのままに見ない」という小林の話を受けてのことです。

 

「どうしてみなんな宣長さんをそのまま見ないのか。宣長のまちがいを正したら宣長ではなくなってしまう。宣長は大へん偉かったから間違った、そういうふうに見ればいいんだ。じゃ、どう偉かったから、ああなったということが僕にうまく書ければ、あの人は間違わなかったことになるんだ。それが生きた歴史だ。

 僕は、思想ってものにもドラマがあると思うのです。人生はドラマチックだと小説家はいうだろう。しかし学問の世界というものは理路整然としなければいけないように、みんな思っている。そういう通念がありますね。それはおかしなことです。

 学問といっても、宣長の学問は人生の学です。そこに矛盾というもののおもしろさを見つけてもいいわけです。」

 

小林のこの指摘は学問に矛盾を見つけることにこそ学問の面白さがあるといっていることで、すべて理路整然としてものが学問という世間の通念を否定しています。まず先入観を捨てること。通念に捉われて矛盾で留めらたそこで終わりです。むしろ宣長を変なひとと見て、その矛盾点に目を向けること、それが学問ではないでしょうか。

 

ふたりの話は続きます。「日本の文章というものは漢文の訓読によってできたものです。だから、日本人というのは、非常に批判的だし、反省的なのです。日本人は模倣的だなんていうことを人はいうだろう。それは日本の歴史を知らないんで、本当はそうじゃない、日本人は反省的なんです。いつでも人と比較しなければ自分の文明を保てなかった人たちなんですよ。」

 

小林は「言語は文明の基礎」といい、「日本文を、最初につくったのは女です」と紫式部を挙げています。漢文はそもそも男のものでした。それは社会的な文章はみな漢文が使われていて生活には入ってきませんでした。なので女は生活に即した文章を、日本文を書いたのです。「紫式部は漢文に堪能だった。『源氏物語』はそういう批評的文章、比較の上になりたった文章」と語っています。

 

江藤はすっかり聞き役にまわっていますが、「ごく最近、女の小説家にちょっと違う人が出てきたような気がしますがね」と切り出します。これは紫式部や清少納言のような作家ではない。実名は明かしていませんが「私事を書く」小説家のようです。「自分の言葉で何かを書こう」とする作家。小林は自然主義の作家かと受けとります。江藤は最近、「コンピューター的文章」を多く読んでいるのでこうした「私事を書く」女性作家が気になっているようです。

 

読者としてはその女性作家を知りたいのですが小説名も明かしていません。小林もそれほど関心がないのか追求もしていません。江藤は夏目漱石をやっていて高浜虚子の文章に自然主義に近いものを感じたといいます。小林は即座に否定します。江藤は虚子の文章が「自然主義に呼応する」と言いたかったようです。それは正岡子規と虚子の文章を比較して、虚子の方が広がりがあるという。「自然主義の芸人、職人の作家たちが参考を求めた時に、あアこれだと思うもの、虚子はやっていたんじゃないか」と説明しています。「そういわれてみれば、あんたのいうとおりかもしれないね」と小林も同調しました。

 

しかしふたりの決定的な受け取り方の違いが少しづつ見えてきます。「三島事件」についての受け取り方です。江藤は「三島事件は三島さんに早い老年がきた」という。小林は「それは違うでしょう」と否定ます。すると江藤は「老年というのがあたらなければ一種の病気でしょう」と返します。小林はきっと語気を強めて言っています。「あなた、病気というけどな、日本の歴史を病気というのか」

 

小林は吉田松陰と三島由紀夫の死を「日本的事件」といっています。小林は三島が「ずいぶん希望したでしょう。松陰もいっぱい希望して、最後、ああなるとは、絶対思わなかったですね。」と、もし皆立ち上がれば三島は腹を切るのはよしたかもしれないといっています。

 

その死は共に自刃ですが、松陰の場合は刑死に近い。三島は賛同は得られなくとも覚悟の死です。

しかしふたりの死は「日本的な事件」であり、「歴史というものは、あんなものの連続」と小林は解釈しています。そして宣長も徂徠も「憤死」したといっています。

 

江藤のいう「病気」か、小林のいう「日本的な歴史事件」か、受け取り方は人様々です。しかしこのふたりの解釈は余りにかけ離れています。江藤は事象的に判断したものです。小林は三島を歴史的な人々と重ね合わせています。ふたつの知性。これは30の年の開きばかりではないでしょう。

 

ともに考察的ですが、きっと歴史の見方の違いです。