知性ついて | さむたいむ2

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今日も元気で

知性について考えました。

「物事を知り、考えたり判断したりする能力」と辞書には書かれています。

日常私たちがしている行為です。

しかしここで改めていう知性とは、ただ私が物を考えたり、それによって判断したりしたことすべてを指すものではありません。思考するにもテキストが必要です。漠然と考えるのは「思考」ではなく「想像」に過ぎません。もちろん想像もまた思考と云えますが徒に考えるだけでは絵空事で終わってしまいます。

そこで書くということも考えることと同義であることを承知して、いま私はふたつ(ふたり)の知性を紹介したいと思います。

 

小林秀雄も江藤淳もすぐれた批評家です。両氏の齢の差は30あります。親子ほどの開きです。

 

『小林秀雄 江藤淳 全対話』(中公文庫)は見事にこのふたつの知性を色分けています。5つの対談とそれぞれの批評を幾つかうまく融合した作品です。2019年7月に中央公論社からオリジナル文庫として出版されました。対談は小林の話を江藤が切り出す形になっていますが、小林もまた江藤の話を詳らかに引き出しています。当然ながらたがいに尊敬の念をもった対話となっています。

 

そしてもう一つの作品。江藤淳の『小林秀雄の眼』(中央公論社)は、2021年2月の最新刊です。

まだ読み切っていないのですが、小林の没後、江藤が『現代日本文学館』(文藝春秋)の月報に連載された「小林秀雄の眼」を単行本化したものです。小林秀雄は1983年3月、江藤淳は1999年7月に亡くなっています。ともに文芸批評からスタートし、江藤は小林を追うかたちで文学には止まらず、様々なジャンルで批評を続けました。

 

ただ江藤は『小林秀雄の眼』で何を目指したのか。小林の批評文の一部を取り出して江藤の考えを述べているのですが、これは「小林の眼」ではなく「江藤の眼」ではないのでしょうか。

小林秀雄の批評は難解です。それは氏の文章が難解なのではなく、難解な問題をいかに著すか工夫をしているからで、江藤ほどの知力があれば理解できるのかもしれませんが、並以下の思考力しかない私にはやはり難しい。

 

ただどうやら江藤自身、小林秀雄の文章に苦慮しているところがあります。だからこそ「小林の眼」と提示して自らの考えを述べているのではないでしょうか。『全対話』では必ずしも江藤と小林秀雄の意見とは一致していません。むしろ「ふたつの知性」は対峙し、それぞれの考えを語り合っているのです。そしてようやく江藤は『小林秀雄の眼』で小林の死後、ようやく語ることができたのです。『夏目漱石』に続き『小林秀雄』という評論を書いた実績があります。小林は江藤の批評指針であることに変わりなく、「江藤淳の眼」として小林秀雄を語っているのです。

 

私は「ふたつの知性」を理解するテキストとしてこの2冊を幾度となく繰り返し読み続けることでしょう。それが拙い私の知性を少しでも育てることになるのだろうと考えています。