実に1か月半ぶりにブログを書いてます。
これほど書くことから遠ざかったことはありません。
心の変化というよりも、ただただ疲れていたのです。
ひと月のアルバイトをしていて体力を消耗していたのです。
テレビ好きの私が録画したドラマを途中で眠ってしまう始末です。
目が覚めるとストーリーの繋がりが不確で、それでも内容は分かるという。
かといって消去してしまう。
当然本も読んでいません。新聞だって見出しを追うだけ。
これはたぶん疲労の所為だけではありません。
嫌な言葉だけど加齢でしょう。
集中力に欠けている。それにようやく気づいたのです。
しかし書くことに遠ざかったのは加齢のためでは断じてない。
私にとって書くことは思考することなのです。
書かなくとも人は思考しています。
今何をしようか、誰でも考えるでしょう。
しかしその「考える」と「思考」とは少し違います。
ただ考えるのは人間だけでなく家のハナだってしています。
猫は野生の本能で生きていますが、飼い猫は人間との折り合いに長けています。
思慮深いのは様子だけで本当は浅はかです。しかし生き抜く知恵がある。
もしかしたら私の上をいきます。
誰が我が家の実力者かしっかり見抜いています。
奥さんに叱られてもすぐに甘える。しっぽを踏まれても「にゃあ」といいつつ逃げません。
自分の母親と思っているのかもしれません。
そして私にはご飯を貰うためのスリスリを忘れません。
ただし、食べ終わるとさっさと行ってしまいます。
かくて猫でも人を見る。そういった「考え」はあるのです。
しかし「思考」ともなると面倒なことにも遭遇します。
迷い悩むことです。その重さに耐えきれないとき人は語り、書くのです。
このプロセスに不備が出ると人間はウツになるのです。
私は精神科医ではないので「たぶん」そう思います。
憂欝を感じても「ウツ」ではない。ウツになってしまう人は憂鬱さに取り込まれています。
そこから抜け出せないから精神科医が必要になるのです。
だから「思考」などと迂闊にいえない。ミイラとりがミイラに成りう兼ねない。
健康は大事です。身体だけでなく心の健康も鍛えておかなければいけない。
心にも筋肉が必要。柔軟な筋肉が。
たらたら書いてしまいましたが、ブログは私の心のトレーニングです。
書く意味などないけれど、意味を探すために書いているのです。