今年は三島由紀夫が亡くなって50年。「憂国忌」のニュースもコロナ禍にあって取り上げるメディアも少なかったように思います。さらに西法太郎氏のこの力作に対しての関心も薄いようです。あの三島由紀夫全集を二度も出版した新潮社刊のこの『50年目の証言』。雑誌「新潮」でも取り上げていない。
「芸術新潮12月号」では「特集21世紀のための三島由紀夫入門」として、あの有名な三島が東大全共闘と熱のこもった討論のシーンを撮影した写真を表紙としています。「近代ゴリラ」さながらのピンナップ。昭和史の一頁として終わらせているのでしょうか。それとも三島作品を現代の若者に読んでもらいたいというアッピールでしょうか。
数ある「三島由紀夫」関連の書籍のなかで、西法太郎のとった「三島事件」の真相の追求には並々ならぬ苦労がありました。「三島事件裁判記録」を克明に調べ、さらに関係資料、関係者へのインタビューなど、事件から50年経ってのため調べ上げるのに10年は要しているでしょう。そして看過できない一章があります。
第三章の「三島事件」に秘められたもの、です。「権力による”不作為の罪”」。これは西法太郎の見立て、として断っています。「三島事件」の裁判記録のなかで、当時の防衛庁長官であった中曽根康弘が法廷で「三島君がやった事件が覚悟の事件であって」「三島君が念願していたことについても、ある程度の同情を示しつつ」「覚悟の事件だということをある段階にきて直観して」いたという証言です。三島由紀夫の行動は「覚悟のうえ」であり、「ある程度の同情」を示した、ということでしょう。
市ヶ谷駐屯地のなかで事件は起こっています。警察は事前に三島と盾の会隊員4人の行動を察知していたのです。そしてこの事件は警察によって処理されています。自衛隊から要請があったという。
自衛隊内の事件は「警務部」で行うのが通常です。しかし「この事件」に関しては、事件発生後、益田総監が人質となり三島らが総監室に立て籠もっていると警察へ通報されたのでした。それも上司に相談なく一自衛官からの通報という。そんなはずはありません。シビリアンコントロールされている自衛隊が、防衛庁長官の指示なく警察へ通報できるわけがありません。国会中とはいえ自衛隊内の事件です。長官が無理なら次官からの指示待ちでしょう。
それも警察の出動が即座ということです。機動隊二個中隊(約100人)と私服警官150人という大規模の出動です。これは事前にわかっていなければ無理でしょう。もし自衛隊内の警務隊がことにあたっていれば、益田総監の解放と三島らの確保可能であったという。確かに自衛隊員幾人かが総監室に入り三島の刀で怪我を負っています。しかし人質の安全を考え、警察が事にあたったのです。
当時私は高校2年で休憩時間に「三島、自衛隊乱入」というニュースを校舎内で聞きました。職員室も色めきだっていました。どんな事件なのかわかりません。高名な作家が市ヶ谷東部方面総監を人質にとり、彼と盾の会隊員ひとりが割腹自殺した、という克明なニュースは帰宅してから知ったのです。駅のホームの売店の新聞も売り切れていました。何度あのニュースを繰り返し見たでしょう。各局競って流していました。
「三島事件」は起こるべくして起こったのです。警察はその情報をすでに熟知していたのです。事前に逮捕も可能でしょう。左翼運動が下火になったとはいえ、まだ警察力は維持されていました。自衛隊も何故、武器を持参した三島たちを招きいれたのか?これも不思議です。「まさか三島が」という油断があったのでしょうか?そして警察に出動させ、総監室の前で「事が終わるの」を待っていたのです。
この不思議としか思えぬ時間です。
確か当時の中曽根氏は「狂気の沙汰」といっていました。それが裁判では「覚悟のうえで同情する」という言葉に変っています。もちろん時間の経過でそう思えたのでしょう。しかし自衛隊でなく警察に依頼したのは何故なのでしょう?そして警察もまた事の起こりを知りながら黙認したのです。
裁判においてある程度見えてきましたが、この不思議な成り行きについては触れられることはなかったのです。50年目にして明るみになりましたが、西法太郎氏について評価の声が上がって来ません。すでに「昭和史のひとつ」になってしまったのか。ただこうした社会的な事件がまだ葬りされる危険があります。知らなくていい事でしょうか。知らないことが幸福でしょうか?
闇は晴れることなく続きます。