岡田裕介氏の訃報を聞く | さむたいむ2

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今日も元気で

岡田裕介氏が18日に亡くなりました。

急性大動脈瘤解離ということで、その突然の死は全く面識のなかった私にもショックでした。

 

庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』で1970年に映画デビューして氏の存在を知りました。

朴訥としたセリフ回しは主人公である「薫くん」とは似合っていなかったけれど、黒いタートルネックにジーパン姿はある種のイメージとしてあっていました。

 

たぶん当時誰がやっても「薫くん」を演じられたでしょう。それだけ庄司薫の作品は多くのひとに読まれ注目されていました。1969年、『赤頭巾ちゃん気をつけて』が「中央公論」5月号に掲載され、同年7月に第61回芥川賞を受賞し、単行本が刊行されたのは8月です。そして映画化されたのが翌年8月と「薫くん」ブームとなりました。その騒がれ方は石原慎太郎の『太陽の季節』以来ということでした。

 

私はこの作品を手にしたのは10月以降です。当時東京谷中に住んでいて、谷中銀座の「武藤書店」で購入しました。すでにこの時点で10版となっています。街の書店ですから文学書のコーナーなんてありません。実用書とともに並んでありました。「芥川賞受賞」と帯に書いてありましたが私はタイトルに惹かれ手に取り、さらに文章を読んだら、そのおしゃべり風の書き方に、立ち読みでなく買って帰ろうと決めました。

 

「薫くん」は日比谷高校3年生で東大受験のない衝撃の時代に生きていました。安田講堂が全共闘に占拠され、その紛争がもとで入試が中止されたのです。さらに彼は大学受験を諦めます。浪人して翌年目指すこともできたはずです。また京大や慶應、早稲田へと進路変更もできたのです。でも彼は自分で勉強しようと決めたのです。これはまさに私にとって重要課題でした。当時17歳であった私は大学受験を翌年に控えています。薫くんとは程遠い学力で東大はおろか名のある大学は絶望的でした。また受験勉強など余裕もなく、日々の授業にもやっと追いついている状態です。この時点で薫くんのように「大学は止めた」と云えればまだましです。

 

何をするでもなく2浪もして悶々とした青春を送ったものです。いま思えば全く無駄な時間を過ごしたものです。唯一行ったのは漢字の練習と読書です。受験勉強もせずに高田馬場駅近くの喫茶店で芥川龍之介や志賀直哉の文庫を読んでいました。また70年11月25日、三島由紀夫の市ヶ谷駐屯地における自刃も影響しています。死を賭して主張する男がいました。恵まれた才能を持ちながら、それを捨てる覚悟を見たのです。理由は理解し難いものですが三島の真摯さはうそ偽りありません。もし当て嵌まるものがあるとしたら、彼のいう「文学の毒」がそうさせたのでしょう。

 

三島由紀夫の死と庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』が急激に文学へと私を惹きつけました。いわば「毒」に魅了されたのです。受験勉強を装い文庫を読み漁りました。時間は棄てるほどあったのです。あの時ほど読書に集中したことはありません。あの頃は喫茶店もあちこちあり、1、2時間は有に過ごせたのです。五木寛之もあの頃夢中に読んだものです。「デラシネ」の思想。自分は漂流しているんだと思い込もうとしたのです。しかし真では三島由紀夫と庄司薫の対比でした。文学は毒にも薬にもなるのです。

 

岡田裕介氏の訃報は私の70年代を思い起こしました。彼がゴム長を履いて銀座を歩いた姿が今でも目に浮かびます。黄色いリボンを髪につけた小さな女の子。薫くんの怪我した足を踏んずけた、あの小さな女の子。彼は痛いのを隠し、彼女に「赤ずきん」の絵本を選んであげます。薫くんの我慢はこの女の子が罪悪感に苛まれるのを避けるためです。だって彼女に罪はありません。夕方の銀座をゴム長で歩いていた彼がいけないのです。でもこの少女に出会わなければ薫くんは落ち込んだまま家に帰らねばならなかったでしょう。彼は世の中の敵と真っ向から対峙していたのです。世の中全ての悪と戦っていたのです。これは三島の真摯さにもあります。しかし三島の足を踏んずける少女は現れませんでした。庄司薫に芥川賞を推した三島です。もうすでに意を決していたからか。黄色いリボンの女の子が三島の前には現れなかった。

 

あの少女はきっといいお母さんになっていることでしょう。もしかしたら可愛い孫に「赤ずきん」を読み聞かせしているかもしれません。しかし彼女が毒にでも薬にでもなるものを読み聞かせていると思うと、ちょっと怖い気もします。