村上春樹の短編集『一人称単数』その6 | さむたいむ2

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6作目の「謝肉祭(Carnaval)」は2019年「文學界」12月号に発表されました。

 

シューマンのピアノ曲集『謝肉祭』作品9を題材にしていますが、「F*」というクラシックのコンサートで友人から紹介された女性について書かれています。

「F*」は容貌からすると醜い女性ですが、とてもにこやかで堂々としています。話が上手で、感じも良く、話題も多岐に渡っていました。

 

容貌を美醜に分ければ「F*」は醜に違いなく、ただどのように美しくないか(醜いか)を具体的に描写するのは至難の業でした。「僕」と「F*」の音楽の好みが似ていて、ピアノ曲の究極は「シューマンの『謝肉祭』」ということで一致しました。「僕」はルービンシュタイン、「F*」はミケランジェリの演奏が最高といっています。そして合わせて「42枚」のレコード、CDを互いの家で聴いたのです。

 

「僕」の奥さんは「F*」のことを「素敵なガールフレンド」と揶揄しました。性的関係を疑われなかったのは彼女の容姿にあったといっています。(しかし浮気は相手の容姿でする訳ではない!)たぶん「僕」の奥さんは主人の好みのタイプではないことを確信していたのでしょう。(だが、これは時に外れることがあります。不倫は理屈ではありません。勢いや魔が差すことがあるのです)

 

シューマンの『謝肉祭』をじっくり聴いたことのない私は、春樹氏のようにこのピアノ曲を分析することはできません。シューマンは梅毒のため晩年精神を病み、自殺未遂を起こします。しかし『謝肉祭』はそれ以前のものですが、「カルナヴァル」という陽気なお祭りが舞台なので、陽気な仮面をかぶったものたちが現れ、それを音楽で表現したものでした。

 

「私たちは誰しも、多かれ少なかれ仮面をかぶって生きている。まったく仮面をかぶらずにこの熾烈な世界を生きていくことはとてもできないから。悪霊の仮面の下に天使の素顔があり、天使の仮面の下には悪霊の素顔がある。どちらか一方だけということはあり得ない。それが私たちなのよ。それがカルナヴァル。そしてシューマンは、人々のそのような複雑の顔を目にすることができた」と「F*」はいいます。

 

春樹氏はその言葉から「仮面」の下の彼女の「素顔」を考えます。それは彼女の夫とともに起こした「大型詐欺事件」のニュースを見たからです。テレビに映る「F*」の夫はハンサムでした。高齢者を相手にした「資産運用詐欺」。彼女と夫の容貌の違い。これはまさに「謝肉祭」に現れる仮面を被った魑魅魍魎です。どちらが「素顔」かわかりませんが、シューマンにはきっと見えたのでしょう。

 

春樹氏の小説には珍しく、観念だけで書かれたものです。「F*」の素顔がわからないからでしょう。

たぶんこれを膨らませても「長編」にはなり得ません。だから「短編」でしか描き得ない小説なのです。