村上春樹の短編集『一人称単数』その7 | さむたいむ2

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短編集7作目の「品川猿の告白」は2020年の「文學界」2月号に発表されました。

 

これまた奇妙な小説です。かつて品川御殿山の大学教授に飼われていた「猿」が、ある温泉地で働いています。「僕」は行き当たりばったりの旅をしていて宿を探していました。夜7時過ぎに泊めてくれるところはなく、ようやく見つけた温泉宿でした。建付けの悪い宿でしたが、一夜を過ごすには申し分なく、温泉だけはゆったり寛げることができたのです。

 

「僕」が湯に浸かっているとそこへ一匹の年老いた猿が入ってきます。そして親切にも背中を流すというのです。断る理由もない「僕」は猿に任せました。そして風呂から出たら部屋で一緒にビールを飲もうとお礼も兼ねて猿を誘います。

 

部屋の壁に背をもたれビールを飲み交わす「僕」と猿。これだけでも奇妙な絵です。

 

猿は品川に住んでいたことがあること。またそこの教授夫妻に親切にされ、人間の言葉を覚えたことなど話し出します。何があったのか品川を追われ猿は、自分が人間にも、また猿の仲間からもはみ出してしまったことを知ります。

 

人間の言葉を喋る猿など受け入れる先はなく、孤独に耐えるしかありません。彼の唯一の救いは女性を好きになることでした。しかしその恋情は「片想い」です。そして7人に女性を好きになり、彼が出来ることは、その女性の名前を盗むことです。相手に気づかれず免許証とか、保険証など身分を証明するものを拝借し、一心に願うとその名を盗むことができたのです。名を盗まれた女性は困ります。ふっと自分の名前を忘れてしまうからです。

 

これ暗喩でしょうか。片想いの熱情が勝ると相手にこうした形でしか伝えられないものがあるのです。猿だけでなく人間にも起こりうることではないでしょうか。「恨み」とはまた違ったもの。

 

春樹氏は「猿」の存在を信じています。しかし好きな女性の名を盗む猿がいることは口外しません。話しても混乱が生じるからです。常識人は混乱を好みません。けれど作家である彼はこうした「猿」がいることを疑わないのです。何故なら「片想い」ほど切実なものはなく、何か相手に自分の存在を知らしめたいという思い。それが「名前を盗む」こと。

 

これは悪意ではなく恋情です。その切実さを「猿」に託したのではないでしょうか。