笑いと滑稽 | さむたいむ2

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           ドーミエの風刺画「ロベール・マケール」

笑いとは私たちの内在する感情で、滑稽は笑いを誘う形態であると通常思われています。

ボードレールの論文『笑いの本質について および一般に 造形芸術における滑稽について』を読んでいくと、そう簡単に割り切れる問題ではないのです。またにこの論文はまるで暗闇のなかの黒猫を探すようなもので、ライト片手に歩いても容易に見つけ出すことができません。せめて彼女があのつぶらな目を開けてライトに反応してくれて、ようやくその存在を確認できるものでした。

ここで記すのはあくまでその反応した黒猫の瞳で、彼女の全体像ではないことを了解して頂きたい。ボードレールの文章の一節をご紹介するのが私にいま出来うることなのです。

「笑いと苦痛とは、善と悪を統御する力と識別する力の宿る器官、すなわち目と口によって表現される」

これは人間が涙をもって苦しみを洗い、笑いは心を和らげるためのものと解釈していいのでしょう。また「笑いは、狂気の最も頻繁で最も数多い表現のひとつである」という言葉に再び幻惑されてしまいます。それは「他人の不幸」に対して(これは「精神上の弱さ」と詩人はいっています)、「弱さが弱さに打ち興うじるにもましてなげかわしい現象」を呼び起こします。簡単にいうならば、他人の不幸に興うじている自分の弱さを指摘しているのでしょうか。

さらに「笑いの原動力は、笑う者のうちに存するのであり、笑いの対象のうちにあるのでは断じてない」として、「ころんだ当人が、自分のころんだことを笑ったりは決してしない」といっています。自嘲するということは、そういう姿を周りに見せて、実は自分では笑っていないということでしょう。人間の心理の奥深くは計り知れません。

そして「人類は向上するにしたがって、善のために獲得した力に比例する力を、悪のために、悪の理解のために、獲得する」。これはボードレールの神髄でしょう。キリスト教徒である彼はそこに「滑稽」を見ています。詩集『悪の華』は逆説ではなく、向上した文明の人間たちの滑稽さを歌ったものだったのです。

また「悦びと笑いを十分区別しなければならない」として、また時として「涙で表現されることもある」と断って、「笑いは、一個の表現、一個の微候、一個の症状にすぎない。何の徴候であるか?そこに問題がある。悦びは一なるものだ。笑いは二重の感情、矛盾する感情表現だ。それゆえにこそ痙攣をともなう」

詩人は「グロテスク」によって惹き起こされる「笑い」を追求します。

「滑稽(コミック)は、芸術的見地から見れば、一個の模倣である。グロテスクは、一個の創造である。滑稽とは、模倣に、一種の創造能力つまり芸術的観念性の混じたものだ」

そして「グロテスクによってひき起される笑いは、それ自体のうちに、何か深遠で、公理的で、原始的なものをもっていて、それが、人間の振舞いの滑稽によってひき起こされる笑いに比べて、無垢な生活や絶対的な悦びに接近するところ遥かに多いものだから」としています。

さらに詩人はグロテスクを「普通の滑稽への対立物として絶対的滑稽と呼び、普通の滑稽の方は、有意義的滑稽と呼ぶことに」して、絶対的滑稽の方は自然に接近することが遥かに多く、一なる相をとって現れ、直観によって把握されることを欲している。そしてグロテスクに対する検証は「笑い」にしかないと言っています。それも「突然の笑い」にです。

詩人はその絶対的滑稽をテオドル・ホフマンの作品のなかに見ようとしていますが、私は彼の作品を一作も読んだことはなく『ブランビュラ姫』という題を掲げられても記憶に留めておくことにしましょう。

いまはただ詩人の「美術評論」を読むことに専念したいと考えています。