文章を書きたいという人がちまたにあふれてるような気がします。
ブロガー達はエッセイストになった気分です。半分プロ、ほんとのプロの物書きもいっらっしゃい
ます。まあ、ブログ上で自称でしょうけど?どうでしょうか?
そういうワタシも、中学生の頃からの習慣だった日記は、さてどれくらいあるかここ数年のは
押入れのダンボールの中で一度も再読されずに、眠っています。
たぶん、実家の押入れのダンボールの中にも、子供だったワタシがそこで眠っていると思いま
す。一応ワタシの勉強部屋はそのままになっていますので、子供のワタシは、誰にも知られず、
ひっそりとそこにいます。
日記ですから、人に読まれることはありません。学校で書く作文以外に書くことなんてありませ
んが、たいてい、作文コンクールでは最優秀賞をいただいては、校長先生を喜ばせていたものです。
それでも、文章を書くことが好きだと自覚したことはありません、とにかく、書いてあるものなら
薬の能書きから、駅前でもらった宗教の勧誘のチラシでさえも読まずにおれない性格です。
書くより、読むことが大好きでした。
小学校のときの天才作文少女が大人になって小説家になるかといったらそうではありません。
美空ひばりの再来と言われましたが、歌手にもなっていません。
子供は、皆ピカソです、末は美大にいって女流画家になりなさい。
なんて言われましたが、ピカソは世界に一人。
ブロガを始める前には5年ほど、人のブログを読み放題でした。読むのが好きです。
不特定多数の知らない人に向かって、日記を公開しています。しかしこの日記読んだ人が、
感想(コメント)を書くことができる、そのやりとりで、ネット上での人間関係が、人と人が繋がっ
ていくんです。あっちにもこっちにも知り合いができます。
友達の輪ができてくるんです。いつもと同じメンバーがコメントを書きそれに本人がコメ返を書くと
いったことが飽きないかぎり続くんです。
あんなに真剣にコメントを書いていた人がいつの間にやらいなくなってしまって、それもありです。
カフェで談話しているのとは違って時間差はありますがそれなりにお互いをブロ友と呼んでいます。
実世界での人間関係と違って、どちらがコーヒー代を出すかなんて、気を使わなくていいし、今から
他の約束があって時間がないけど話のこしを折っては失礼だしなんてことも考えなくていいんです。
アバター同士の仮想空間と言ってしまうとちょっと淋しいですが、虚しく感じる時もあるというのが
ワタシの実感です。
字がへたくそだって、関係なし、作文大嫌いだった人、読書なんて漫画しか読まない人も皆ごぞっ
て、書くということがぐっと身近になってきました。インターネットのお陰です。
おにいちゃんもおねえちゃんも、おじちゃんもおばちゃんも、ブロガーです。日記ではないんです
読まれるということを前提に書いているのですから、なら、エッセイとでもいうのでしょうか?
では、エッセイとは?ちゃんと定義したものがなかなかないんです。
何かの本で読むと、範囲が広くわかりにくい、何かテーマを考えて、そのことについて書くこと。
テーマとしては、花が綺麗、小鳥が可愛い、月が美しい・・・花鳥風月的エッセイ。
暮らしの中の一面を切り取った生活エッセイ、これが身近なだけにたいていはこの種のブログが
多いです。それだけに、下手上手の差がはげしい、この人しみじみした文章書くし、共感を呼ぶ、
次も読みたいとなるようなブログはまあ、たくさんはないんですが、相手に知らせずに読者登録し
て、更新を待ちます。それにひきかえ、無理やりこじつけたようなエッセイには閉口します。
たぶん自分でエッセイとはと定義つけているんだと思うんです。日常生活の中の些細な出来事を
自分の思考にスライドさせているんですが、無理やりです。誰がどう考えても、そこへは行かない
でしょうというようなこじつけです。ここにエッセイを上手く書こうとする作為が見えるんです。
人生は些細なことの積み重ね、どれをとってもその時の喜怒哀楽が、何かを思い浮かべ自分の心の
奥底に潜んでいる悲しみや苦しみにスライドすることはあります。もちろん楽しいことや愉快なこと
も感動や情景がさまざまとよみがえってきます。
文は人なりと言う言葉、書いたものはその人そものもです。人柄がにじみ出ています。この人で
なければ書けないもの、それがエッセイなのではないでしょうか?
上手いとか下手とかの基準は、どれだけ素直に自分の気持ちを書いているか?飾らず、平明に
読者を意識せずに、こんな悲しい、苦しい想い、弱さを皆の前のさらけ出す、苦しくて振り返ること
のなかった思い出を文章に書く、書きたくない、いや書きたいを交互に思いながら、心に問いながら
書いたと思われるエッセイ、それを読み取れるような文章に出会う、感動以外にありません。
感動ということは心が動くんですから上手いということはこういうことではないでしょうか?
自分の中の弱さや醜さ、恥ずかしいこと、封印していたこと、そのことに向き合う自分を
もう一人の自分が「いいんだよ」と言って勇気をもたせてくれる。
十分大人になったワタシです、世間でいうところのおばちゃんです。でも自分史を書くまでには
いっていません、過ぎ去ったことをいとおしむ心境ではまだありませんし、まだまだワタシを人間を
わかっていないのに、稚拙な文章でこれ以上恥の上塗りは出来ません。卑下自慢の自伝や自慢史の
自分史を誰が読むでしょう。修行が終盤に近づいた頃、脳が元気で、書きたいと思えば、書くかも
しれません。
旅行はしても、旅をしてこなかったワタシ、紀行文はむずかしい。人生を旅に置き換えれば
人並み以上な波乱万丈であったことは小出しに書いた記事のとおり、でもそれは紀行文とは
いえません。
政治・経済・社会問題について、小市民としてのおばちゃんなりの毒意見も書きますが、やはり
そこは熟年世代の男性の分野のような気がします、変革の歴史を身をもって体験していますからね
若い男性、女性も歯に衣着せぬ、ナイフのような文を書く人も、読んでいて気持ちいいです。
音楽、美術、映画、本に造詣の深い人のエッセイを読むのも楽しみです。
とりあえず、生活エッセイを書く人に、アメブロは中学生も書いていますから、それは除外です。
大人な方、中学生のようなテーマでのエッセイは読んでいて恥ずかしい。
エッセイは大人の文学だから、少年・少女にはわからないと何かの本に書いてありました。
「日本エッセイスト・クラブ」というのがあります。毎年すぐれたエッセイストにクラブ賞をおく
られています。何十年も前のこと、新聞で「今年のクラブ賞は俳優の高倉健さんです」という
記事を読み、あの高倉健さんがどんなエッセイを書くのか興味を持ちましたが、残念読む機械を
失ってしまったままです。
そのエッセイスト・クラブの創始者の一人に大宅壮一氏がいます。
彼の有名な警告に
「テレビは非常に低俗であり、テレビばかり見ていると、人間の創造力や思考力を低下させ、
日本国民全員の知性がなくなるだろう」
テレビっ子で育ったワタシですが、ワーカーホリック時代にはテレビを見る時間がなく、話題に入れ
ない、仲間はずれがありましたが、その後も真剣にテレビを見るチャンスがなく今のどこを入れても
おなじみのお笑い芸人のひな壇番組は、一度は笑えても、馬鹿じゃないかぎり何度も笑えない。
それでも、好きな芸人「爆笑問題」やモノマネ芸人はいます。。報道ステイションもあの人が司会を
するようになってからは見ていません。よって、有料チャンネルに入会、テレビで映画をみていま
す。テレビが薄型になってから、映画を観ようとでっかい画面を購入したんですから。
話が反れましたが、その大宅壮一氏がエッセイストを分かり易く定義しています。
『魚に例えたら、ピチピチしてイキのいい魚河岸的でなく、文学者のような鰹節的でもない
ひと塩の魚の味、そうひと塩ライター』
ひと塩で生臭さを消して天然の味を一層引き出すことが大切である。
エッセイにも天然の味を生かす工夫が必要だ、生きのいい経験に思考の味つけをすると
風味のあるエッセイが生まれる。ということでしょうか。
The pen is mighter than the sword.
ペンは剣よりも強し。
言論、つまり書くということは声であり、責任を伴うこと。本当のことを書くことは人を傷つける
こともあり、とても勇気がいることです。
本当のことを書く、ということはやはり困難なことです。でも本当のことでなければ、読者を裏切る
こと、あえては自分をも裏切ることになると思います。
言い換えます、「ウソを書かないこと」気が楽になりました。
あんなに、毎日更新していた1年前、じつわ、記事を書くことが恥ずかしくなってきていたんです。
へたくそ、やめちまえ。
とどこかから声が聞こえてきます。
それでも、なんとかPCに向かいますが、指が動きません。
恥をかくぞ、誰かが笑ってるぞ。実際わたしも、みごとなエッセイに出くわす時もあれば
あまりにも「ひどい」、作為を感じるエッセイに腹立たしさを感じる時もあるのです。
あーー今日も長い、長い誰も読みたくないようなワタシの愚痴記事です。
おじちゃん、おばちゃん、ブログといえどもエッセイ。
エッセイは大人の文学です。
これに限ります。
大いに反省し、自己満足でもいい「ひと塩ライター」に近づけるように精進していこう。
今夜はこの辺で。
明日も「書くこと」の続きを書きたい、これは反省文です。
ブロガー達はエッセイストになった気分です。半分プロ、ほんとのプロの物書きもいっらっしゃい
ます。まあ、ブログ上で自称でしょうけど?どうでしょうか?
そういうワタシも、中学生の頃からの習慣だった日記は、さてどれくらいあるかここ数年のは
押入れのダンボールの中で一度も再読されずに、眠っています。
たぶん、実家の押入れのダンボールの中にも、子供だったワタシがそこで眠っていると思いま
す。一応ワタシの勉強部屋はそのままになっていますので、子供のワタシは、誰にも知られず、
ひっそりとそこにいます。
日記ですから、人に読まれることはありません。学校で書く作文以外に書くことなんてありませ
んが、たいてい、作文コンクールでは最優秀賞をいただいては、校長先生を喜ばせていたものです。
それでも、文章を書くことが好きだと自覚したことはありません、とにかく、書いてあるものなら
薬の能書きから、駅前でもらった宗教の勧誘のチラシでさえも読まずにおれない性格です。
書くより、読むことが大好きでした。
小学校のときの天才作文少女が大人になって小説家になるかといったらそうではありません。
美空ひばりの再来と言われましたが、歌手にもなっていません。
子供は、皆ピカソです、末は美大にいって女流画家になりなさい。
なんて言われましたが、ピカソは世界に一人。
ブロガを始める前には5年ほど、人のブログを読み放題でした。読むのが好きです。
不特定多数の知らない人に向かって、日記を公開しています。しかしこの日記読んだ人が、
感想(コメント)を書くことができる、そのやりとりで、ネット上での人間関係が、人と人が繋がっ
ていくんです。あっちにもこっちにも知り合いができます。
友達の輪ができてくるんです。いつもと同じメンバーがコメントを書きそれに本人がコメ返を書くと
いったことが飽きないかぎり続くんです。
あんなに真剣にコメントを書いていた人がいつの間にやらいなくなってしまって、それもありです。
カフェで談話しているのとは違って時間差はありますがそれなりにお互いをブロ友と呼んでいます。
実世界での人間関係と違って、どちらがコーヒー代を出すかなんて、気を使わなくていいし、今から
他の約束があって時間がないけど話のこしを折っては失礼だしなんてことも考えなくていいんです。
アバター同士の仮想空間と言ってしまうとちょっと淋しいですが、虚しく感じる時もあるというのが
ワタシの実感です。
字がへたくそだって、関係なし、作文大嫌いだった人、読書なんて漫画しか読まない人も皆ごぞっ
て、書くということがぐっと身近になってきました。インターネットのお陰です。
おにいちゃんもおねえちゃんも、おじちゃんもおばちゃんも、ブロガーです。日記ではないんです
読まれるということを前提に書いているのですから、なら、エッセイとでもいうのでしょうか?
では、エッセイとは?ちゃんと定義したものがなかなかないんです。
何かの本で読むと、範囲が広くわかりにくい、何かテーマを考えて、そのことについて書くこと。
テーマとしては、花が綺麗、小鳥が可愛い、月が美しい・・・花鳥風月的エッセイ。
暮らしの中の一面を切り取った生活エッセイ、これが身近なだけにたいていはこの種のブログが
多いです。それだけに、下手上手の差がはげしい、この人しみじみした文章書くし、共感を呼ぶ、
次も読みたいとなるようなブログはまあ、たくさんはないんですが、相手に知らせずに読者登録し
て、更新を待ちます。それにひきかえ、無理やりこじつけたようなエッセイには閉口します。
たぶん自分でエッセイとはと定義つけているんだと思うんです。日常生活の中の些細な出来事を
自分の思考にスライドさせているんですが、無理やりです。誰がどう考えても、そこへは行かない
でしょうというようなこじつけです。ここにエッセイを上手く書こうとする作為が見えるんです。
人生は些細なことの積み重ね、どれをとってもその時の喜怒哀楽が、何かを思い浮かべ自分の心の
奥底に潜んでいる悲しみや苦しみにスライドすることはあります。もちろん楽しいことや愉快なこと
も感動や情景がさまざまとよみがえってきます。
文は人なりと言う言葉、書いたものはその人そものもです。人柄がにじみ出ています。この人で
なければ書けないもの、それがエッセイなのではないでしょうか?
上手いとか下手とかの基準は、どれだけ素直に自分の気持ちを書いているか?飾らず、平明に
読者を意識せずに、こんな悲しい、苦しい想い、弱さを皆の前のさらけ出す、苦しくて振り返ること
のなかった思い出を文章に書く、書きたくない、いや書きたいを交互に思いながら、心に問いながら
書いたと思われるエッセイ、それを読み取れるような文章に出会う、感動以外にありません。
感動ということは心が動くんですから上手いということはこういうことではないでしょうか?
自分の中の弱さや醜さ、恥ずかしいこと、封印していたこと、そのことに向き合う自分を
もう一人の自分が「いいんだよ」と言って勇気をもたせてくれる。
十分大人になったワタシです、世間でいうところのおばちゃんです。でも自分史を書くまでには
いっていません、過ぎ去ったことをいとおしむ心境ではまだありませんし、まだまだワタシを人間を
わかっていないのに、稚拙な文章でこれ以上恥の上塗りは出来ません。卑下自慢の自伝や自慢史の
自分史を誰が読むでしょう。修行が終盤に近づいた頃、脳が元気で、書きたいと思えば、書くかも
しれません。
旅行はしても、旅をしてこなかったワタシ、紀行文はむずかしい。人生を旅に置き換えれば
人並み以上な波乱万丈であったことは小出しに書いた記事のとおり、でもそれは紀行文とは
いえません。
政治・経済・社会問題について、小市民としてのおばちゃんなりの毒意見も書きますが、やはり
そこは熟年世代の男性の分野のような気がします、変革の歴史を身をもって体験していますからね
若い男性、女性も歯に衣着せぬ、ナイフのような文を書く人も、読んでいて気持ちいいです。
音楽、美術、映画、本に造詣の深い人のエッセイを読むのも楽しみです。
とりあえず、生活エッセイを書く人に、アメブロは中学生も書いていますから、それは除外です。
大人な方、中学生のようなテーマでのエッセイは読んでいて恥ずかしい。
エッセイは大人の文学だから、少年・少女にはわからないと何かの本に書いてありました。
「日本エッセイスト・クラブ」というのがあります。毎年すぐれたエッセイストにクラブ賞をおく
られています。何十年も前のこと、新聞で「今年のクラブ賞は俳優の高倉健さんです」という
記事を読み、あの高倉健さんがどんなエッセイを書くのか興味を持ちましたが、残念読む機械を
失ってしまったままです。
そのエッセイスト・クラブの創始者の一人に大宅壮一氏がいます。
彼の有名な警告に
「テレビは非常に低俗であり、テレビばかり見ていると、人間の創造力や思考力を低下させ、
日本国民全員の知性がなくなるだろう」
テレビっ子で育ったワタシですが、ワーカーホリック時代にはテレビを見る時間がなく、話題に入れ
ない、仲間はずれがありましたが、その後も真剣にテレビを見るチャンスがなく今のどこを入れても
おなじみのお笑い芸人のひな壇番組は、一度は笑えても、馬鹿じゃないかぎり何度も笑えない。
それでも、好きな芸人「爆笑問題」やモノマネ芸人はいます。。報道ステイションもあの人が司会を
するようになってからは見ていません。よって、有料チャンネルに入会、テレビで映画をみていま
す。テレビが薄型になってから、映画を観ようとでっかい画面を購入したんですから。
話が反れましたが、その大宅壮一氏がエッセイストを分かり易く定義しています。
『魚に例えたら、ピチピチしてイキのいい魚河岸的でなく、文学者のような鰹節的でもない
ひと塩の魚の味、そうひと塩ライター』
ひと塩で生臭さを消して天然の味を一層引き出すことが大切である。
エッセイにも天然の味を生かす工夫が必要だ、生きのいい経験に思考の味つけをすると
風味のあるエッセイが生まれる。ということでしょうか。
The pen is mighter than the sword.
ペンは剣よりも強し。
言論、つまり書くということは声であり、責任を伴うこと。本当のことを書くことは人を傷つける
こともあり、とても勇気がいることです。
本当のことを書く、ということはやはり困難なことです。でも本当のことでなければ、読者を裏切る
こと、あえては自分をも裏切ることになると思います。
言い換えます、「ウソを書かないこと」気が楽になりました。
あんなに、毎日更新していた1年前、じつわ、記事を書くことが恥ずかしくなってきていたんです。
へたくそ、やめちまえ。
とどこかから声が聞こえてきます。
それでも、なんとかPCに向かいますが、指が動きません。
恥をかくぞ、誰かが笑ってるぞ。実際わたしも、みごとなエッセイに出くわす時もあれば
あまりにも「ひどい」、作為を感じるエッセイに腹立たしさを感じる時もあるのです。
あーー今日も長い、長い誰も読みたくないようなワタシの愚痴記事です。
おじちゃん、おばちゃん、ブログといえどもエッセイ。
エッセイは大人の文学です。
これに限ります。
大いに反省し、自己満足でもいい「ひと塩ライター」に近づけるように精進していこう。
今夜はこの辺で。
明日も「書くこと」の続きを書きたい、これは反省文です。