2016年8月6日、台湾八日目・帰国。 | 滋賀・高島の機屋・サダ杉岡のブログ

滋賀・高島の機屋・サダ杉岡のブログ

滋賀の高島という地域で機屋をしている今年53歳の男のブログです。
仕事のこと・家族のこと・日々の日常で感じたことなどを綴っております。
大したことは書いておりませんが、それでもよろしければご覧ください。

台湾に来てから八日もたったのか、と我がことながら感心している今日この頃。


14時過ぎのピーチ便(またピーチって!)にて、無事にすべてのミッションを終え、帰国の途に就くこととなりました。


思い返すと


わたしが、初めて海外の繊維産業を見学に出向いたのは、今からちょうど10年前のことでした。


所属している組合の、そのまた所属している工業連合会の推薦を受けたのかなんなのか、ひょんなことから同じく繊維業に就かれている福井産地の後継者の方や、大手合繊系の加工会社の営業の方、そして滋賀県にも大きな工場を持たれている某・超大手繊維会社の方、化学繊維系の協会の方、等々の若手の方々とともに、経産省の職員の方とともに、中国へ出向き、上海近郊の工場や、営業所や、ジェトロ事務所等を回らせていただきました。


その時わたしが見たのは、驚きという言葉でしか表せないことと、経験の数々でした。


大きな現場、新しい機械、そして魅力的な市場を持つ国が、沸き上がり


「今から勃興していく進化形の国」


として成り立つ姿を見て、思ったこと。



それは


「わたしは10年経ったらどうしていきたいのか」


ということを、自社単位でなく、産地という大きな範囲で見なくてはいけない、ということでした。


明らかに量的対応や、確実なコストダウンができる可能性がある国や地域に対して、何を対策していき、何を伸ばしていけばよいのか。


自社だけでは対策の限界がある、とその時のわたしは思ったようです。


自分が経験したことは、産地に。そして産地が経験したことは、我がことのように共有し、学ぶ姿勢が大事である、という考え方をするようになりました。


ただし、自社があくまでも一地方のメーカーにすぎないことは百も自認していたため、一足飛びに行動の意識を変え、実践することは避け、とにかく意識をして、ボチボチと仕事を改革していくことがわたしに課せられた任務だと勝手に解釈して、仕事を進めるようになりました。


そこから


すこしずつ、仕事への取り組み方、目の色が少しずつ、変わったように思います。


結果としては、自社が大きな会社になれたわけでもなく、どこかの大きな商社と密になれたわけではないのですが、それでも、そこから10年の間、高島で、祖父の代から始めた仕事が続けられてきたことはわたしにとっては大きな経験でした。


その間、時代はすごい早さで変遷していき、ついていけない場合は容赦なく置いていかれる、という事例を多く、見させていただきました。


地域に根差した産業に従事するものとしては酷なくらい、取り巻く環境は変わってきているように思えます。


チャイナプラスワン、ネット社会の成熟、そんな単一のキーワードで表されるような単純なものではなく、末端であるメーカーのわたしたちの世界には、その時の時代時代が複合された、ややこしい環境があり。


そしてその中で、何とか生き延びて来たような気がします。


そういえば、その10年前のミッション時季は、トリノで冬季オリンピックが行われていたときだったように記憶しています。





格安飛行機はその時、あったっけ?



・・・・ない?



等と思いつつ、帰りの飛行機の便の青空を眺めながらぼーっと、冒頭のそんなことを思い出した次第です。


前置きが長くなりました。


朝は、少しゆっくりの6時過ぎに目覚めました。


昨晩に食べた、夜食のビックマックが効いたのでしょう、あまり空腹感がないのをいいことに、猛然とわたしは荷作りを進めました。


窓からは、高雄港や、愛河のきれいな景色が見えるのに、わたしはその景色を愛でる余裕もなく、ひたすら荷作り。











最後に、何故かホテルの部屋で自撮り。




大汗をかいたあと、自分が乱れていないかどうか、こういう確認を時々しますが、明らかに今日は普段より濃い顔に仕上がりました。


(いった国々で、すぐにその国に合わせた顔に仕上がります。)


疲れなのか、水のせいか、それとも別の何なのか。


まあよしとして、10時からの総合反省会に臨みました。


ここしばらく、体調低下傾向のコーディネーター堤幸一氏の顔色と、とーく能力は回復し、饒舌な司会ぶりを久しぶりに拝見して安堵しました。


段差で滑ったり、赤ら顔になったり、受け答えがとんちんかんだった、ここ数日の堤さんの姿はすでになく


滋賀県と高島市に愛される、世界をまたにかける敏腕コンサルタントのコウイチ・ツツミの姿がそこにはありました。





よかったです。


課題をいくつか項目ごとに進めたあと、わたしが反省の意を述べたあと、各自のお話をしてもらいました。


川島くんの「人と人の結び付きの強い地域での商売を目の当たりにした」という意見で全員が深く頷きます。


次いで本庄くんが高島ちぢみのことについて感じたことを述べ


増田くんが「帆布は日本のものの優位性がない、ちぢみは何のアイテムに使われるのかを含めて提案していく必要がある」という意見で、再びまた全員が頷きます。


駒田くんは帆布の差別化についての難しさを述べられ、平山くんが海外でも生地加工できるようになっている現状への怯えを伝えます。


市役所平井課長にも、戸田さんにも、思ったことを述べていただき、みんなで思いを共有することが出来ました。








昨年度から、成果というキーワードを使って、海外展開についての進み具合を問われる機会が続きます。


生地がどれだけ売れた、製品がどれだけ並んだ、または知名度の向上が図れたか?


まあ確かに、そういうことで示した方がよい場合も多いとは思いますが、わたし自身は、以下のように思っています。


「実はその段階までいっていない」と。


まずは、若い事業者たち自身が、今の時点での自分達の位置付けを知ることが第一歩として、特に必要なのだと思います。


世界の中で、業界の中で、「高島ちぢみ」「高島帆布」の双方において、自分達がおかれている場所を認識することもせずに、どこかへ向かおうとすることは非常に危険です。


だからこそ、この機会を利用させていただき、事業者の若い人には、より多くの参加をしてもらい、学んで、参加者だけでも意識や課題を共有して欲しかったのです。



色んな思いを共有し、今後に繋げていくこと。


二年目になりますが、海外展開という事業を通して、若手事業者にこういったことを経験させていただけたことは、非常に良いことだったと思います。


地方創生においては結局、ある場合においては地域の産業の成り立ちや、仕組みのリストラから始めないといけないと思っていて、遠回りで、面倒ではありますがこの課程を経ていったものしか残らないとも思っています。


今回の場合は、たまたま海外展開という新たな場面での挑戦であったので、仕組みを変える必要が無い分、逆に楽な面が多かったのかもしれません。


そしてまずはそれらの課題などを共有できたことが、今回の大きな「足掛かり」です。


(話が相当長くなりますが、わたしはそんな感覚でみています。)


長いと言えば・・


最後の林さんの講評は、やっぱり長かったです。



本当に、林さんのお陰で、キツい日程の中でも、とても楽しい日々を過ごさせていただきました。


ありがとうございました。


最後に、記念撮影をして、お世話になった高雄のホテルを後にしました。




皆様、お疲れさまでした。


空港までは、一人荷物が多いわたしとのバランスで、少ない二人の方との相乗りでタクシーで向かいました。




市役所のお二人にも、色んな思いがある中で、事業や課題と向き合い、そして事業者と向き合っていただけたこと、本当に有り難いと感じました。


ありがとうございました。


往きはジェットスター。


復えりはピーチ。




わたしの荷物は「HEAVY」マークが貼られましたし、有料追加料金も払いました。


その後


荷物は開けさせられ、買ったものの箱の封は破られ、なかなか厳しめの対処をしていただきました。


(他、荷物を開けさせられたのは課長、川島くんなど。主にモバイルバッテリーがよく捕まったみたいです)




追加支払い場所から見た、向こう側。


格安航空券の便利さは、今回痛感しました。


処理にスピード感があり、割りきった余分なサービスもなく、そしてリーズナブル。


素晴らしいのですが・・


仕事などで荷物が多いと予測される際は、出来たら格安以外で今後は、お願い致します。


搭乗前、スパゲッティをいただき、台湾での最後の食事としました。







ごちそうさまでした。


土曜日の午後13時過ぎの高雄空港は、少しすいており、普段混んでいるという、ピーチのゲートもそんなに混んではいませんでした。





有り難いことに、無事に出国出来そうです。




機内持ち込みをする人が多く、チェックも入念にされました。









乗り込みました。


予定時間よりやや遅れ、飛行機は台湾高雄を離れました。















さようなら。






わたしのとなりには川島くん、そして平井課長の鞄開けトリオ。


このメンバーだと寝るのがデフォルトで、おしゃべりストッパーが発動されているようで、あまり誰とも話せず、わたしとしてはもどかしい機内でした。


しばらく後。



わたし「(小声)課長、入国カードは?」


課長「(頷く)」


わたし「(どっちの意味かわからず、ボールペン差し出す)」


課長「(猛然と書き出す)」


わたし「(小声)川島くん、見せてあげて」


川島「(そっと自分の記入ずみカードを差し出す)」


課長「(立ち上がり、荷物棚を開け、パスポートを出す)」


わたし「・・(上にあげてたんや・・)」


課長「ありがとうございました(ボールペンをわたしに返す)。」


課長は大物です。


今回、入出国にはあれだけ手間取ったのに、ペンもパスポートも上にあげていた、という。


わたしは一人、ビールで乾杯。



やっと終わったなあ、と安堵する一瞬。


18時過ぎ、飛行機は無事に関空第2ターミナルに到着しました。




雨が降った後なのか、路面は少し濡れていました。





貴重なスリーショットがとれました。


新曲のジャケット写真のようです。



戸田さんの後ろで、増田くんが警備員に撮影を止められる、というひとこまです。


第1ターミナル方面へ向かい、「日本も暑いな」などと生意気なことを話しながら、大汗をかきつつ、JRはるかに乗車。


山本さん、堤さんはここでふたりで相談タイムにはいられたので、ここまででお別れです。


お疲れさまです。





1916はるか関空発、2032京都着。





車内はそこそこ満員で、わたしたちの自由席もなかなかの混み具合。


湖西線は2050の定刻からやや遅れ、京都を出ました。




荷物に囲まれたインバウンド旅行客にも見える集団の居る湖西線の一角は、他の人が寄り付かない何かを感じます。


わたしも逆の立場なら、少し遠ざかります。


安曇川で降りる平井課長、近江中庄で降りる戸田さん以外は2200過ぎに新旭駅で降り、最後にわたしが軽く挨拶をして、団は解かれました。


「今後にいかしましょう」


これがすべてです。


皆様、本当にお疲れさまです。


お迎えをしてもらった本庄夫妻にココスに連れていってもらい、ハンバーグを食べました。






ごちそうさまでした。


帰宅後、夏祭りの出役で疲れ果てていたヨメに会って


「ただいま」


といい、わたしの旅は終わりました。


うとうとしつつカレンダーを見ると


もう、お盆もそこまでやって来ていました。


また、次へ。