私が助けられ、LOMの光明か、と思ったメンバーは、結局考えてみれば比較的入会の浅い人たちでした。
川島稔雄部会長は、入会してまだ2年ほどながら、今年度式典部会長に抜擢されました。
当初は本当に頼りなく、見させてもらった議案なども含めて、本当にできるのかな、という思いしかありませんでした。本人もいやいやだったということは自分でもわかっていたと思います。
ですが、どこか憎めない本来の人柄のおかげか、誰に意見を言われてもそれを吸収し、何かに生かしたい、と思うような姿勢がいつからか出てきました。今年父親になったというもあるのでしょうが、その頃からか、どんどんできる男へと変貌していきました。
9月3日が終わるまでは、と自らが現場に出ないといけない種別ながら、仕事を二の次にしてきた状態だった彼が、延期ということでどうしようもなく混乱した心をもう一度整理し・・・
「俺、やるっす。」
とマクドナルド安曇川店で私に伝えてくれました。
その勇気たるや、推察するに余りあります。
彼の成長こそが、今年度、私がみた「JCの素晴らしさ」の象徴だったような気がします。
修正後の9月例会、ブロック大会のPRを今一度LOMメンバーに伝える例会をしたところ、野ざらし状態ではあったものの、なべ実行委員長からの無茶ブリに答え、私と稔雄部会長はメンバーの前で話し、お願いをしました。
その状況に耐え、しのんだ部会長の姿は、今思えば半年前のそれとは別人のようでした。
そんな稔雄部会長を支えたメンバーたち。
まずは松本真一総務委員会委員長。
当初は式典の司会をする予定ながら、お身内の不幸によってそれをあきらめざるを得ないというときも、最後まで責任を果たしたいという意志を示していた総務委員長。疲弊するLOMのなかで、しかも陽の当らないLOMの運営をコツコツとこなし、途中から(あまり)機能していなかった三田村専務の補佐を見事に勤めあげました。
11月20日では、式典では、おそらく司会をしたかったであろう心をぐっと押し殺し、精一杯裏方をこなして卒業式の司会を立派に勤めあげてくれました。
そして桑原徳治総務委員会・副委員長。
年齢はやや上ながら、松本委員長の右腕でもあり、稔雄部会長の右腕でもあるという、久々に表れたやる気のあるJCマンです。理事会セクレタリ、そしてアカデミー委員会出向という重責も抱えながらも、年度を通じて必ず委員長と部会長の二人を補佐し、議案をチェックし、叱咤激励を繰り返してきた通称「とくじ歴代」。
リハーサルでも、みんながしない仕事を引き受け、11月20日では、式典会場のアテンド、裏方、そんなことをコツコツとしてくれていました。
11月20日、司会をしてくれた西川将平君もそうです。
当初は松本君の代理で渋々と引き受けてくれた司会の仕事。しかしその役割の大事さを知ってくれてからの眼の色の変化はすさまじかったと思います。
当日は少しミスもしましたが・・・その悔しそうな顔をみたとき、私は、ああ、これでこの人は成長する、やっぱりやってもらって良かったと思いました。
他、何も事情が分かっていないに等しい中で、快く司会を引き受けてくれ、責任を全うしてくれた中村美由紀君。
厳しい言葉を年間通して川島君に伝えながらも、卒業式の進行一切を男らしく引き受けてくれた林副部会長。
あと、他LOMさんへのPR活動へは積極的に行ってくれるのに、LOMの例会にいつの間にか来なくなり、しかしながら式典ではきっぱりとマイク出し入れをする、と引き受け、重責を担ってくれた(やっぱり間違えたけど・・・)卒業生・川島好行君。
彼らの存在こそが、中止→延期になりながらも、それでもまだ大会が「できるかも・・・」という、ギリギリの場所でとどまっていられた原因というか、最後の砦であったように思います。
主催主管あたりで出がちな、やるやらない、の論議はさておき。
実行委員会レベルでの、どうやってしようか、の論議もさておき。
ベテランになってくると出がちな、誰がどうで、だからどうだ、などの論議もさておき。
ただ、純粋に
やりましょう。
そう、心から言えるメンバーが既にいたのですから、結局は私という「個」の判断などでは及びもつかないところで、すでに高島JCは成長していたのかもしれません。
(アムロ・レイなら、ア・バオア・クーで「こんなにうれしいことはない・・・」と言って泣きながら生き残った連邦軍の人たちへ駆け寄っていくところです。)
そういった新芽の萌芽は、長い冬を春に変えてくれますが、今回はこの高島に実りの晩秋を連れてきてくれました。
渡部実行委員長も一応、それなりに、彼なりに、頑張っていたのですが、今回は割愛・・・・。
(まだまだまだ続く・・・・そろそろ終章へ)