ひっかかるもの | sachiのブログ

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「一人ひとりがそれぞれに自分らしくいられる場」をつくる人
でありたいなあと思いながら働く日々を綴ります。

今回、とあるワークショップに参加した。
大切な友人が運営に関わるワークショップで、
他にも大事な友人・知人が参加しているとても楽しみにしていたものだった。

そのワークショップでは、ファシリテーターが言いたいメッセージもわかったし
言っていることも理解できるしまあ共感もした。
けれど、そのワークショップの場の持って行き方がどうにも苦手で、
ひっかかるものを感じた。

ワークショップの中では、とあるゲームを参加者みんなでやって終えて、
最後にファシリテーターが「実はあのゲームにはこういう意味が」と種明かしをする。
参加者が唸る。「そうだったのか」と驚く。
ファシリテーターは、ほらあなた実際にこういう動きをしちゃってましたよね、
とその皆の経験を根拠に講義を始めていく。自分の話に持っていく。

うーん、なんというか、すごく乱暴に人をその場に押し込めているかんじがして
私はなんとなく居心地が悪かった。
「ゲーム」には、その中の独自ルールがあるから、
人を「ゲーム」のルールに従わせる強制力を持っている。
その強制力の下で「ほらあなた(いつも)こうですよね」と言われても
なんだか腑に落ちなくってきもちわるい。

そのゲームで考えさせること、伝えたいメッセージは良いのだ。
とても本質的なことを言い当てていると思う。
でもその場の作り方、持って行き方、
「ゲーム」に「ひっかかった」ときの参加者のびっくりした表情を見たときの
嬉しそうなファシリーテーターの顔。色んなものがひっかかって離れない。

一方で、自分を疑ってしまうときもある。
私は彼らのメッセージを本当には受け取れていないから
そんな「場のつくりかた」にいちゃもんつけているのかもしれないし、
これも彼らの言う「固定観念」や「考え方のくせ」なのかもしれない。
自己否認モードに入りつつも、やっぱり「場の作り方」にはどうにもひっかかる。

「ファシリテーターやカウンセラーはそうやって、人を操ることができるんです」 と、

静かに呟いた橋本久仁彦さんのたたずまいを思い出す。
ワークショップの罪をかんじてしまう。