サウンドノベルで多く見られる並行世界を小説で構成したギミックが良い。

各キャラクターの濃度の高さ、主人公の一人称語り手としての鬱々としつつも共感できるキャラクター性、各話で共通して出てくる小物、エピソード、セリフなどそれぞれに著者独特の感性と良さがにじむ。

特筆すべきは小津というキャラクターであろう。現状を憂い嘆く主人公に対して自らの好奇心の赴くままに学内を跋扈する行動力の化身。一人称で主人公から語られる限りは悪の権化とも言わしめる小妖怪の一種のようであり、またそれは大筋正しいのであるが、話が進むにつれ事あるごとに主人公つきまとい茶々を入れるこの小津という存在に妙な親しみを覚えてしまうのである。話の後半で主人公が呪詛のような悪態を並べながらも、小津が自分にとって唯一の友人であると気づくシーンはある種胸が熱くなるものがある。

この小津という存在が、イケメンな好青年ではいけないのである。あくまで謎を秘めた妖怪のような、謎の存在であることがその良さを向上させるのは、SUITSでいうルイス、コミケ童話でいう神おっさんのように、初見の印象を無駄に上げすぎず、主人公たる語り手からは妖怪じみたヤバいやつという印象を提示させる必要があるだろう。

本作で取られている並行世界を見せるギミックは小説では珍しいものの、サウンドノベルで大凡採用されやすいもので(特にバッドエンドルートを含むものや、複数のヒロインを有する作品では顕著)、本作を読んでその地の文、つまりは繰り返される(どのストーリーでも共通して現れる)シーンに独特の良さを充分含ませることが肝要であると感じた。

おおよそ加筆について言及することはないやもしれないが、個人的には各章で財布から千円が消失しているような描写を与えたかった。が、連載作品でそのような伏線を置いておくのは甚だ難しく、本ギミックで一作を書こうと志した時点で最終章を書き終える必要があったのではないだろうか。これ程の著者であるのだからそれであれば恐らく各章ないしは一部の章から千円を消失させる描写を挟み込んでいったであろう。さらにはビールの空き瓶に水を汲んで小津に飲ませるだとか、あの移動中に明確に行った行動が全て伏線の回収となりうるのである。いずれこの手の作品を書く際に念頭に置いておきたい。

とはいえ加えておきたいことは、本作の肝はギミックではなくこの文体とキャラクターから溢れる独自性、良さである。ギミック主体ではない時点でこの作者の他の作品も同様に面白いのではないかという期待が生まれる。創作家として非常に重要な点である。作品を作っていく中でギミックを採用することも多々あるではあるだろうが、そこはあくまでオプション、スパイスである。メインとなる部分、即ち地の描写力、キャラクター創作力、ストーリーの構成力といったものを十分に高めてておきたいものである。

1人の少女が夢にしがみつき路上ライブを行い続けるが上手く行かずもがく様相を描いた作品。
ビジュアル系の歌手としてデビューすることを夢見て、日々作曲、CD作成、そして路上ライブと心身を注ぐが、ラジオ局に送ったCDは捨てられ、路上ライブには立ち見も付かない。他の路上ライバーはどうやらラジオで曲が採用されたらしい。自分は進めているのか。もがき続ける。
作中では何人かの彼女を取り巻く人々が映し出される。母という自らを心配してくれる拠り所、手の平を返すように褒め出すオタク達を単純に是非で測ることはできない。ただ彼女の周囲には、あの環境にはそのような人々がいるということだ。彼女からすれば「頑張り過ぎなくて良い」という母の心配、思いやりは、彼女なりに努力しても努力しても先に進んでいる気のしない泥でもがくような日々には鬱陶しい、分かっていないと反発してしまうだろう。自らの才能を疑い、だからこそ努力でカバーしないといけないともがく日々の中で、虚言によってではあるものの、かのオタク達から受けた「他とは違う、オーラがある」などの賞賛は、仮初のハリボテでも彼女が求めていたそのものであり、虚の世界に囚われてしまうのも無理はないのかもしれない。ただ、そこには現実がある。ラジオで自分の曲は流れず、路上ライブに人は来ず、人生を諦めたようなストーカーに襲われる。それが彼女の現実であった。
この作品ではもう1人の人生を半分諦めた人物が動いている。かのラジオ局で製作ではなく総務部として雑用を行う川崎である。昔自分が本当にやりたかったことはなんだろう。どんな夢を持っていただろうと自問しながらも、彼の現実、電球を替え、ラジオに送られてきたハガキをシュレッダーにかけ、上司からの面倒な雑用を従順に行う日々をただ送る。同じ会社の制作部にいる若者はパワハラのような説教を受け、MCからも小間使いのように扱われている。彼も自分と同じように会社や上司の雑用係のように見える。罵声を受けない分自分の方が平穏な人生とも思える。しかしその実彼は(お世辞かもしれないが)MC達には出世すると言われ、本人も今は辛くてもやりたいことに一歩づつ近づけていると思えるから大丈夫と笑顔を見せる。それは一種、今の現実を虚しく思い、未来などもうほとんど諦めに近い、無気力な表情をした彼と対極にある、明暗の対比の様であった。周りには未来に希望を持って今をもがきながらも進み続ける人たちがいる。ラジオに送られてくるCDを破棄しながら彼は、同じ人物が何度も何度も自分の曲を送り続けていることに気づき、それを聴き始める。事実その曲の質は低い。ただ彼は未来に希望を持って頑張っているそのボーカルになにか感じるものがあったのだろうか。彼女の曲を聴き、虚ろな日々を送る。その時彼女はストーカーに追われ、自らの全てと言えるCDやギターを道端に捨て、ボロボロになりながら新宿を歩く。彼女の希望が消えかけている。誰にも聞いてもらえない自分の曲を歌いながら新宿を歩く。その曲を唯一本当に聞いていた彼が、その歌声を耳にする。後ろ姿を見つける。彼女が振り返る。彼は、彼女の、そして彼自身の、最後の希望を救えるのだろうか。

キャストについて。オタク役を演じたキャストがめちゃくちゃ上手い。喋り方が本物過ぎてシン・ゴジラで高橋一生の演技を観た時のそれと同じくらい驚いた。囲いのいるライバーの演技も上手い。めちゃくちゃ自然。キャストは全体的にわざとらしくなくて自主製作映画にしてはみな遜色なく上手かった。
演出について。大凡ダレることもなく編集も上手かった(カメラが揺れまくるのは已む無い)のだが、最後のシーンでカメラが半回転しながら地面を写したのはどのような意図なのだろうか。あのカメラワークだと、視点である川崎が最後倒れて終わったことになり(そう受け取られ)、ルキフェルと川崎はおそらくその一瞬の出会いが最後の希望となり、その先はなかったのだろうと想像される。カメラがルキフェルをまっすぐ捉えたままブラックアウトであれば、もしかするとこの先、ここから彼らは未来を作り上げていくかもしれない(恋愛ではなくパートナーとして)という想像、最後の希望を残して終わる。ストーリーとしては後者の流れかと思うのであるが、最後のカメラワークだと前者に捉えられてしまうため、なにか意図や示唆があるのだろうか。
脚本について。エンターテイメントではないのだな、とまずは思った。エンターテイメントであれば、むしろ1番最後のシーンから話が始まる。つまりは希望を失いかけた少女と希望を失っているラジオ局の男が出会い、タッグを組んでメジャーデビューや武道館、オリコン1位(あの尊敬しているビジュアルバンドの42歳ボーカルの人の系譜)を目指すサクセスストーリーである。ラジオ局の総務はあのポジションだからこそ沢山の捨てられたCDや、逆にラジオに採用された曲、その領域を知っている。ラジオに流れる曲を知っていても捨てられる沢山の曲を聴いてきた人は殆どいないだろうからそこが彼の強みである。「僕も昔は路上ライバーをやっていて、全然売れなかったから諦めて普通の仕事についたんだ」という例えば電通のような広告企業でバリバリ働くエリートを出しても「僕その曲知ってます」と返せる強さ。ストーリー上でコネクションが作りやすい。制作部の若者とも顔が聞くから話を繋げやすい。
ただし、この監督が作りたかった作品はそういういわゆるエンターテイメントではないのだろう。新宿で路上ライブをする人々、人生に希望を失う、失いつつある人々の、人生のワンシーンを切り取った作品。彼らの世界にもわずかに残る希望。そこに情緒を感じるのだろう。
救われない世界、思うようにいかない現実、そこに僅かに残る希望や愛情。その姿を切り取った作品群は確かにジャンルとして存在する。漫画なら浅野いにお作品や後期の古谷実作品が含まれるだろう。今後この監督はどのような世界を切り出していくのだろうか。または全く別のジャンル作品を作り出すのだろうか。いずれにせよこの監督もまた、その先の希望に向かってもがきながらも突き進んでいるのだろうと感じている。

ミステリー作家森博嗣による自伝的小説。

舞台はとある大学の研究室である。

 

全体を通して淡白かつ他者への興味よりも研究への興味好奇心が上回る主人公の会話が良い。基本的に主人公の一人称で物語は進み、喜嶋先生のセリフはそれほど多くはないが、その喜嶋先生のセリフひとつひとつが写経して壁に貼りたくなるような美しさと力強さを感じ、この静かなる研究者の格好よさを際立てる。

 

この作品の中には作者が意図したかどうかは定かではないが、いわゆる好奇心を追及し続ける研究者と、結婚し、子を成し、家庭を育む、そのために必要なお金を稼ぎ、社会の中での立ち位置、地位を積み上げていくという多くの社会的人類の対比がある。もとより社会的に生きる清水スピカ、修士から社会へ向かった櫻井、博士を経て助教授へと進む主人公、そして喜嶋先生。その4人の人生、価値観、好奇心と執着、社会への順応性、それぞれが会話や行動、エピソードの端々から現れる。読者は前者2人(清水、櫻井)に属する人が多いだろう。中には主人公と同じような過程を経る人もいるだろうがまあ少数だろう。喜嶋先生はそもそも小説を読まないと思われる。どちらかというと作品のテーマや、森博嗣という作者に手を出すあたり、2番目、即ち大学までの過程で学問もしくは何かしら好奇心の赴く先に熱中したことがある人達が読者として最も多いのではないだろうか。私含むそういう人々にとって主人公の思考や行動は共感できる部分が多く、喜嶋先生は格好良く見え、彼ら2人の生き方にある種の憧れや自身の大学時代との比較や多少の後悔(もっと真剣に研究すればよかった!)などを感じるのではないかと思う。

 

とある医者が自身の学生時代を振り返るインタビューで、「自分にとっては黒板に次々と数式を書いていく先生の姿がロックンローラーよりもずっと格好良く見えた」と話していたが、主人公の披露宴で見せた喜嶋先生のスピーチはまさにその格好良さである。我々読者が喜嶋先生のライブを肌で感じることができる。その時我々は、作中主人公が語っていたように、自分と専門の違う話でもどれくらいの山の高さか感じることができ、ある種の興奮を覚えるのではないだろうか。

彼らの過ごした同じ研究室でまるで主人公とともに過ごしたかのように錯覚するほどに臨場感と没頭を感じる作品である。空を見上げ主人公が想起した通り、あの喜嶋先生の研究室は、まぎれもない青春そのものだったのだろう。

 

 

 

マイクロソフトがwindowsでOS界を席巻し、googleがchromeでブラウザを、

appleとgoogleがそれぞれiOSとAndroidでスマホOSをそれぞれ席巻し、その時勢において圧倒的優位を築いたように、ユーザーに常時使われるインターフェースやその標準基盤を獲得することはIT企業における最大のミッションとも言える。

PC、インターネット、スマホと世界のコミュニケーション方法を大きく変える媒体、技術の出現時、上記のようなシェア競争が発生したわけだが、それでは次の競争対象はなにかといえば、そのうちの1つがこの「チャットボット」ではないかと言われてる。

 

チャットボットとはその名の通り、文字入力による会話(チャット)を人の代わりに

自動対応するロボット(ボット)のことである。

AndroidのGoogleアシスタントや、iPhoneのSiriを想像すると分かりやすいかもしれない。

ロボットというとpepperくんのような物理的に存在する機械人形を想像するかもしれないが、IT用語としてのロボット(ボット)はあくまで人の代わりに命令に基きタスクをこなすシステムのことでありチャットボットというのも通常は先程挙げたSiriのように組み込まれたシステムの1つを指す。

チャットボットというもの自体は数十年前から存在していた。例えばwordやExcelなどに搭載されていたイルカを覚えている人もいるのではないだろうか。

彼も一種のチャットボットである。ただし、御存知の通り彼はあくまでヘルプページを検索するための媒介であり、それ以上のことは出来ない。

さらにインターネットの発達により、マイクロソフトが用意したヘルプページ以上に分かりやすい解説ページがネット中に出来てしまったことで彼の役目は2007年頃に終了した。今チャットボットを展開しようとしても、結局かのイルカくんのように不要な存在となるのでは、という疑問を持つ方もいるだろう。

しかしITはこの10年で大幅に進化を遂げ、チャットボットはまさにその恩恵を受ける存在であった。

本書では近い未来「チャットボットが全てのサービスのプラットフォームとなる」ということを主張している。

その論拠となるのは、スマホ、メッセージングサービス、AIの普及・発達に伴うチャットボットの進化である。

 

スマホのその強さは「アクティブ時間」と「即時性」にある。

ブランディングやホスピタリティなどを一旦脇に置き商業の仕組みを単純化すると、各サービスや商品の売上を伸ばすには有形・無形問わずいかにユーザに認知してもらうか、及びいかに素早く(確実に)ユーザーに購入してもらうかという点が重要となる。

まさに「アクティブ時間」と「即時性」が重要とされる部分だが、近年では更にそれを紹介(シェア)してもらうことで更なる認知拡大につなげるという点が重要な点として挙げられ、それこそアクティブ×即時の結果として排出される「シェア速度」というスマホの十八番能力である。

現代の10、20代のスマホ利用時間は平日休日問わず平均して100分を越え、情報の獲得、人々との交流の多くをスマホ経由で行っている。※1

それ故商品の認知についてもアクティブ時間が長いスマホ上での発生頻度が増大していることは想像に難くないだろう。

更に、「即時性」だが素早い購入という点でスマホに比肩する媒体はなかなか見当たらない。

amazonの1clickを利用したことがある人であればその便利さと恐ろしさが分かるだろう。AIDMAからAISAS・AISAへの変化など様々言われているが、プロセスの変化だけでなくそのプロセス間のスピードを、スマホは日単位から秒単位まで縮めたといえる。

amazonにしても以前は自宅でPCを開くという空間に縛られた部分があったが、現在ではスマホが常にポケットにあることにより何かが欲しいと思った瞬間すぐ買える。

今後は更に、詳細の確認、ネット上の口コミ、価格比較、注文などを各自がブラウザ検索を用いて収集する必要がある情報が、チャットボットへ商品名を告げればボットが上記各種情報を一瞬で収集表示し、申込みボタンまでが即座に表示される状態へたどり着けることが想定されるのである。

 

2008年、スティーブ・ジョブスがApp Storeを展開し、サードパーティのアプリが大量に出現、電話やメールに留まらず、地図、録音、読書、ありとあらゆるハードをアプリが飲み込みスマホの価値は爆発的に向上した。

そして2016年、マーク・ザッカーバーグはFacebookメッセンジャー用のチャットボットプラットフォームを展開。

全世界で10億人規模の利用者を有するこのメッセージングサービス上で、誰でもチャットボットを作成し公開することが出来るようになった。公開からわずか4ヶ月で2万以上のチャットボットが稼働を始め、例えば旅券やホテルの予約、デリバリーサービスやニュース、コールセンターなど、各社のホームページやアプリ上で対応していた業務が全てFacebookメッセンジャー上で行えるように変革しつつある。

日本ではLINE、海外ではメッセンジャーやwhat’s upなど媒体競争は続いているが、いずれにせよテキストで文章を投げかけ返答をもらうというプロセスを、我々は各種メッセージサービスにより抵抗なく自然に利用するようになっている。

前述のApp Storeとアプリの例のように、あらゆるビジネスをチャットボットが一元窓口として受付け、それに伴いチャットボットの価値が上昇し続けるという未来がなんとなく想像出来るのではないだろうか。

 

そしてAIである。

従来のチャットボットは「人工無脳」と呼ばれ、あくまで「用意した回答を条件に応じて出す」ことを目的とした存在だった。

現代ではそこに機械学習や深層学習といった学習、推測、文脈理解などのフローを組み込んだいわゆる「自然な会話」や「人間の思考と同様のプロセス」を再現できる機能を搭載し始めている。とはいえ現在は学習のための情報をAIに食わせる段階であり、google、Facebookその他多くの企業が自社の機械学習や音声認識のAPIを公開し、使用してもらうことで情報をかき集めている。

近い将来文字データのみならず、受け取った音声データ、画像データを分解、認識、整理、返答しその結果を蓄積、学習まで一息に行える仕組みが当たり前のように搭載されていくだろう。

 

このようにチャットボット、及びそれを支える機能、その周辺媒体が発展するに従い、チャットボットの重要性も高まっている。

チャットボットは各サードパーティが個々のサービスを提供する「サブボット」と、それらを取りまとめユーザーからのメッセージに応じて必要なサブボットを引き出す「ユニバーサルボット」という形態を取ると言われる。

前述したSiriやGoogleアシスタントがまさにそのユニバーサルボットのポジションなのであるが、同様にFacebookは「M」、マイクロソフトは「Cortana(コルタナ)」、Amazonは「Alexa(アレクサ)」※2と名だたる企業がそれぞれチャットボットとしての標準プラットフォームを目指し、今まさに研究開発とシェア獲得競争を繰り広げている。

 

 

PC、インターネット、スマホ。ITの発展は新たな技術が登場し受け入れられたら一瞬で全世界に普及し、これまでの方法が取って変わられる。

その際に時流に乗れる人々は新しい便利なツールを使いこなすだけでなく、自身もサードパーティとしてサービスを提供したり、周辺ビジネスを立ち上げたりと様々なアクションが取れる。

5G、ブロックチェーン、ナノテクノロジー、IoT。未来に台頭する技術は様々挙げられるが、その1つであるチャットボット。

次のIT変革に向けて考える、絶好の機会が訪れようとしているのではないだろうか。

 

 

 

 

※1:総務省「平成28年情報通信メディアの利用時間と情報行動に関する調査報告書」 参考

http://www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/01iicp01_02000064.html

 

※2AmazonはAlexa搭載の音声認識型宅内コントロールシステムを2014年に販売し海外で300万台以上を売りあげている。

 

 

私は、この2冊の著者である浅田次郎が書く作品たちが好きだ。

特に『蒼穹の昴』なんて、年末実家に帰れば、飽きもなく毎年同じように頁を進めることができるし、毎回それ以前に読んだ時と同じないしはそれ以上の感動とともに読了を迎えることができる。

 

 

以下に浅田次郎のエッセイ集を読んで、自ら思ったことをただただ書いていく。

 

 

『ま、いっか。』『つばさよつばさ』

タイトルからも匂ってくるが、良い意味で非常に緩いエッセイ集。なんともまぁ、読みやすい作品である。ちなみに2冊目は旅先作家に焦点が当てられているのだが、それこそ旅の道中のお供に適した小難しくなく気軽に読める最適な本であると思う。

 

 

■まずは女性の魅力について

筆者は、フランスはパリ郊外のロンシャン競馬場に毎年出没するらしい。もちろん、パリで競馬といえば凱旋門賞である。そこにいる招待客の人々の正装をみて筆者は思うのである、女性の魅力は歳なりに誇らしく装いをこらせば歳を増すごとに高まっていくのではないかと。これは若さが常に一番であり美しく、老いは醜い、と昨今いわれるような考え方とは異なるものだ。

 

女性の魅力は若さが全てではないとの問いに対して、たいてい、生殖行為を種の目的とする人間が若い異性を求めるのは至極当然だとの回答が用意される。果たしてそうなのであろうか。自分は20代後半になったが、どうもティーンエイジャーだった頃の自分と比べると女性の魅力の感じ方が変化している気がしてならない。

あくまで私的な考えではあるが、これは過去如何に自分が異性の魅力に対して近視眼的であり、審美眼が劣っていたかを悔やむことであり、若さが魅力の一大要因ではなく、知性、しぐさ、品性等さまざまなものを包括してより客観的に対象を観察することが、どれだけ出来ていなかったのかを再認識することでもあった。

 

フランスの大統領なんかを見れば、それはもう彼の審美眼が突出していることを痛感し、自らの幼さを悔いて止まないのである。

 

 

■読書について

 

 

  「「読書」の本来の意味は、「読書をする人」ではなく「読み書きのできる人」である。もっと正確にいうなら、「科挙に合格して官途についた人」すなわち「士大夫」と同義である。」

 

 

明治維新後の復興は、民度の高さ故であり、民度の高さがどこからくるかというと、その当時の日本人が優れた教育つまり読み書きに優れていたから故であると、言われる。日本の昨今の教育を批判するわけではないが、読み書きに触れる機会は間違いなく減ってきているはずだ。それもそのはず、読書以外の娯楽が良くも悪くも乱立しているのだから。

 

 

 「教養を得るためなどという不純な目的に拠らず、本でも読むほかには時間の潰しようがなかったろうと思う。すなわち「娯楽」と「教養の獲得」が理屈抜きに一致するという、文化社会の理想形である。」

 

 

著者の幼い頃は、他の娯楽が無かったがために(もちろん他にも様々な遊びは存在したであろうが)、読書を自然に身につけそれが糧になっていたという。ふむ、確かに。著者と同い年くらいであろう私の両親をみても、書物を読んでいる姿を見ることが多かった。私の記憶が正しければ、彼らは当時娯楽の王様であったTVの画面も暗いままに読書に浸っていた。

 

では、私はどうだろうか。大学に進学し一人暮らしをするまで、家にはリビングにTV1台しかなかった。少し家父長的な雰囲気が漂う自宅では、親の読書を邪魔してTVを見ることもできず、いや幸運にもそのせいか、私もまた読書に親しむ機会は多かった。ただ不運なことに、筆者のいうような娯楽と教養の獲得という果実を享受できていたかというと甚だ疑わしいが。(娯楽という意味では、存分に楽しんでいたことは自負できる。)

 

 

最後の書いておくが、読書が素晴らしい、皆TVもインターネットも止めて、読書だけに時間を費やしなさいと言う気は毛頭ない。ただ、昨今の図書館/本屋衰退の危機という読書をする機会の減少を誘発する時勢は、どこかで歯止めをかけたいとは思う。生活をしていくうえで誰がどのような娯楽を選ぶかは自由だが、その選択肢を狭める行為は善いこととは思えないからだ。