affection87 | 櫻の妄想小説置き場【可塑的かそてき】

櫻の妄想小説置き場【可塑的かそてき】

【可塑的かそ・てき】思うように物の形をつくれること。 塑造できること。
主にラブイチャ系よりは切ないネガ多めです。
※このブログにある物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。

車の中。

運転をする菊知がむすっとしたまま口を噤んでいるのがバックミラーに写っている。
 
なにをそんなに機嫌を悪くしているのか。
俺を殴りつけた大海に対してなのか、それとも殴りかかろうとした時に俺が止めに入ったことに対してなのか。
 
こっちは久々のコンクールで疲れきっているというのに、気を使わせるのは正直やめて欲しい。
雅紀だったら終わったあとぐらい何も考えなくても済むようにしてくれんのに。
そう思ったところで、あぁ俺ってまだまだだな…そう落胆した。
 
仕方がない。
家に着くまでは、窓の外の流れる景色でも眺めておくか。
 
それにしても。
松元は泣いていた。
泣かしたのは俺だ。
 
そんなことを考えてしまっていた。
 
 
***
 
 
ようやく家へ到着し車から降りると、菊知は調律用のかばんと荷物を重たいだろうにひょいと担いで、俺が屋敷に入るのを待っていた。
 
「お疲れ様」
 
そう一言だけ声をかけ、菊知の前を通り過ぎる。
屋敷に入りそのままの足でピアノ部屋へ向かっている途中で、口の端がまたジンジンと疼き始めた。
大海のやつ。
思いっき殴りやがって。
何よりも大切なはずの右手で…。
だけどそれぐらい松元が大事だってことだよな。
 
だとしたらどうして。
そんなに松元のことが大事だったらなんで気が付かない。
松元があんなに苦悩していることを。
 
愛しているならどうして。
 
ピアノ部屋へ入ると、やっとホッとできた。
窓辺にある椅子に目を向けてしまう癖は今でも治っていない。
今でもそこに、ニコニコして座っている松元の姿を探している。
 
だけど現実世界。
キスを拒まれた。
キスどころか気持ちまで。
 
それに…やっぱり調律はできないと。
もういい。
その言葉はこれ以上聞きたくない。
 
そう思うのと同時に、なんでそれを今更。
だって俺には菊知という調律師がついたことを彼は知っている。
それなのに。
 
それとももしかして…コンクールの時の俺のピアノを聴いて、音がぶれていることに気がついたのか?
だからそんなことを…。
 
「佐倉井さん、今日はお疲れ様でした」
 
菊知が荷物を持って部屋へ入ってきた。
その言い方は相変わらずぶっきらぼうで、その表情はまだ機嫌を損ねたままのようだった。
 
「あぁ…、おまえも疲れただろ。帰ってゆっくり…」
「疲れてません」
「そう言って、また倒れられでもしたら困るからな」
「なんなんです?」
「なにが?」
 
菊知は相変わらず俺を睨みつけている。
だからなんだってそんなに機嫌が悪いというんだ。
 
「また松元に調律を頼んだんだろ?なんで?俺がいるじゃねぇかよ!」
「違う、誰もそんなこと…」
「じゃーなんで松元はあんなこと言ってたんだよ!」
 
そうか…菊知が気分を害していた理由はこれだったのか。
 
「本当のとこを言うと、おまえが退院してからの調律はずっと音がブレたままだ。それをさっきのコンクールの演奏で松元に気付かれた」
「はぁ!?俺はちゃんとあいつから教えて貰った通りやってる!つか佐倉井さんもさっ、音がブレてるならなんでなんでそう言わないだよっ」
「ちょっと待て…、」
「あ…、」
「おまえ、今…誰から教えて貰ったって?」
「いや、それは…」
 
一体どういうことだ。
こいつ…もしかして松元に調律を教わってたのか?
なんでだ、いつ、なんの為に!
 
そういや過労で倒れた時、夜通し調律の勉強をしていたと言ってたよな。
思い返してみれば入院する前までの菊知の調律はまるで母の調律にそっくりで。
それどころか、そこに力強さまで加わった松元の調律とよく似ていた。
 
「…あ…、」
 
そうだ。
1度菊知には伝えてなかったところがきちんと直されてたことがあった。
そんとき珍しく松元が俺ん家にいて、確か雅紀にお茶に呼ばれたとかって。
それなのにそのことを雅紀に伝えても、なんのことか全然分かってない顔してて。
スケジュール管理に抜けなんか全くない雅紀がなんでって、珍しいなって。
俺はあん時違和感を感じていた。
 
つまりそれは。
そういうことで。
菊知が倒れたあとからピアノの音がぶれていたのは、あいつの体調が悪いからでもなんでもなくて。
それまでの調律は松元がやっていたから。
 
「菊知悪い…今日はもう帰ってくれ」
「え、あ…。や、さっきのは言葉のあやで」
「いいから帰ってくれ」
「……、分かりました」
 
菊知は小さくペコリと頭を下げて部屋から出ていった。
それを見届けてから、どさりと椅子へ腰を下ろす。
 
なんでだ。
なんでだ松元。
おまえは大海と専属契約を結んでいると言った。
だから俺のピアノを調律することはできないと。
それなのに契約違反をしてまで俺のピアノをどうして。
 
俺の知らないところで色んな人間が画策していて。
きっと俺は騙されて、いいように踊らされていたのだろう。
そのことを思えば、本当は腹が立って仕方ないはずなのに。
 
そんなことよりも俺は。
松元がこのピアノに手をかけてくれていた、その理由ばかりを馬鹿みたいに考えていた。
 
んなこと考えたって答えなんか出るはずもないのに。