会場に着いてから割と直ぐに、黒のファントムが敷地内に入ってきたのを見つけた時には…心臓が大きく跳ねた。
車に疎い僕にでも分かるぐらいの高級車で、つまりそれは佐倉井さんを乗せていることを示していた。
まさか今日ここで会えるなんて思ってもいなかった僕は、今すぐにでも佐倉井さんのそばへ駆け寄りたい気持ちを必死に抑えていた。
二ノ瀬さんと智さんの様子を伺いながら、気が付けば神経はそこへと向かっている。
心と体がチグハグする時間が流れていた。
それでもこっそりと様子を伺っていた。
佐倉井さんの乗る車は会場の出入口すぐに付けられて、運転席から降りてきた人物を目の当たりにした僕はハッと息を飲んだ。
相澤さんだとばかり思い込んでいたその人は…菊知くんだった。
菊知くんが後部座席へ回りドアを開く。
そこから当たり前のようにして佐倉井さんが降車した。
そして、佐倉井さんが菊知くんの耳元に唇を寄せた。
おそらく「ありがとう」と囁いたのだろう。
そして菊知くんは嬉しそうに顔を綻ばせた。
僕は思わずそんな2人に背を向けた。
今は会いたくない。
そして僕に気付いて欲しくない。
僕以外の誰かを愛おしそうに見る顔なんて見たくない。
簡単に蘇る佐倉井さんと菊知くんがキスをしているところ。
何度も何度も頭の中に現れては僕の胸の中をぐちゃぐちゃに掻き乱していく。
まるで嵐のようなそれが過ぎ去った後の残骸はすさまじい。
「潤、どこ行くんだ」
「外の空気吸ってくる…ちょっと人が多くて酔っちゃったみたい」
「大丈夫か?」
「うん」
心配する智さんに気持ちがバレないように、僕はその場から逃げ出した。
どうにかしなきゃ。
僕はこれから智さんのピアノを調律しなければいけない。
こんな精神状態じゃ、またこの間のように支障をきたしてしまう。
でもどうしたらいいの。
胸が苦しくて苦しくて、息もできない。
辛いよ。
佐倉井さん。
少し前まではとても近くにいたのに、今はまるで夜空に光る星ぐらい遠くて。
手を伸ばしても決して届かない。
じわりと滲んだ涙をそっと袖で拭い、やっぱり智さんの元へ戻ろうと踵を返したロビーの向こうに、ソファに座る佐倉井さんと菊知くんが見えた。
2人は仲睦まじく顔と顔を寄せ合い、親しそうに会話をしているようだった。
”でもねぇ。あちらさんには恋人がいるみたいよ?”
二ノ瀬さんの声が蘇る。
分かってる。
前に佐倉井さんが僕のことを必要だと言ってくれたのも、僕を失いたくないと言ってくれたのも、それは僕のことなんか何とも思ってはいなくて、ただピアノの調律をして欲しかっただけ。
”あいつがここにいる間にピアノを調律させる。それだけが目的であってそれ以外は意味をなさない”
確かに佐倉井さん本人がそう言っていたのを聞いた。
僕のいれたお茶を美味しいと目をまるくして褒めてくれたのも、僕のリクエストでピアノを弾いてくれたのも、全部全部ただそれだけのため。
じゃあ。
あの夜はどうしてキスをしてくれたの。
あの日佐倉井さんは、もう僕に無理を言わないと言った。
僕の調律を必要としていないあなたが、どうして僕の我儘を聞いてくれるの。
なんのために。
熱くて熱くて身も心も焦がすような、そんなキス。
こんな辛い思いをすることになるのなら…あなたのキスで僕を燃やし尽くしてくれたらよかった。
そして、燃え尽きた僕は灰になって…そのまま散ってしまえたら楽だったのに。