affection23 | 櫻の妄想小説置き場【可塑的かそてき】

櫻の妄想小説置き場【可塑的かそてき】

【可塑的かそ・てき】思うように物の形をつくれること。 塑造できること。
主にラブイチャ系よりは切ないネガ多めです。
※このブログにある物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。

なんできみがここに?

そう、佐倉井さんが呟く。
 
「たまたま外でお見かけしまして。わたくしがお茶へお誘いしたのです」
「外…?」
 
やばい。
とにかく早くなんとかしてここを出ないと、とんでもないことになってしまいそうな気がする。
持ってきたカバンを握りしめて立ち上がろうとした時。
 
「!」
 
あっという間に僕のそばまで来た佐倉井さんに腕を掴まれた。
 
「ちょっと来て」
 
低い声でそう言われて、とてつもない力で引っ張られる。
 
「ちょっと!」
 
抗う暇もないぐらい、あっという間に部屋の外。
長い長い廊下を佐倉井さんに手を引かれながら走っていく。
 
「佐倉井さんっ、ちょっとっ、どこにっ、」
「いいからっ、」
 
一体どこまで走れば目的の場所にたどり着くのだろう。
ひたすら佐倉井さんの背中を追いかけて。
追いかけて…というよりは無理矢理引っ張られてると言った方が正しいけれど。
 
「ぶっ!!!」
 
抗うことを諦めて必死になって走っていたら、急に立ち止まった佐倉井さんの背中に思い切りぶつかった。
 
「ちょっと…、急に止まらないでください…よ…」
 
そこまで言って僕は息をのんだ。
 
真っ白な部屋の真ん中に佇む真っ黒なグランドピアノ。
もしかしてここが…佐倉井さんのピアノの部屋?
 
「やって」
「え」
 
急にドンと強い力で背中を押されてピアノの前によろける。
やってって…なにを?
おずおずと佐倉井さんの顔を見ると、
 
「ほら」
 
顎で指図された。
 
「…なにを…、」
「はぁ?調律に決まってんだろ、きみは調律師だよな?やって、今すぐこのピアノ」
 
どうしよう。
何て言えばいいんだろう。
だけど遠回しに言ったところで、多分伝わらないような気がする。
 
「出来ません」
「は?あぁ、道具か、それならこの家にあるものを使ってもらって構わない。おい雅紀っ!」
 
佐倉井さんが大声で相澤さんの名前を呼ぶから、僕は慌ててそれを止めた。
 
「佐倉井さんっ、ちょっと待ってください!」
「なに?」
「違い…ます、」
「違うって…?」
 
低い声色に恐怖を感じた。
だけど佐倉井さんが、ハハッっと笑うから。
僕の言いたかったことが伝わったのかなって…そう思ってホッとしたのに。
 
次の瞬間、いきなり胸ぐらを掴まれたかと思ったらそのままグランドピアノに背中を押し付けられた。
締めあげられた首元が詰まって苦しい。
やめてくれと訴えようにも、声を出すのも困難でできない。
目の前には血走った佐倉井さんの瞳が僕を睨みつけている。
 
「ここに何しに来た?」
「…っ…なに…しにって…」
「おまえまさか偵察に来たんじゃないだろうな」
「…ぐ…、違い…ますっ…」
「もしかして…、大海(おうみ)に頼まれたのかっ?そうだろっ!」
「ち…が…いますっ」
 
苦しくて思い切り佐倉井さんの腕を振りほどこうと必死にその手を掴んだ。
だけどその力は思いのほか強くて、僕の力ではどうにもならない。
 
「大海の差し金じゃなけりゃ、きみは一体ここへ何しに来たというんだ」
「ち…がっ、僕は…ただっ!あなたに…あや…まりた、くてっ」
「…謝る…?」
 
掴まれていた襟口が解かれ緩むと、一気に肺に空気が入りゴホゴホと咳込んだ。
そして苦しさから、その場に崩れるように座り込む僕に、
 
「謝るって、なにを?」
 
佐倉井さんの怒りにまみれた声が降り注ぐ。
 
「はぁっ、はぁっ、…あなたとっ…コンクール会場でした約束を…守れなかったからっ」
 
それでも必死に息を整える僕に、
 
「そうか、俺との約束を守れなかったことを悪いと思っているのか…」
 
佐倉井さんがそう言うので僕ははいと応えた。
すると、
 
「じゃぁ今すぐこのピアノを調律してくれよ!!!!」
 
ダーンっ!
佐倉井さんがピアノに拳をぶつける。
大きな音が響いて思わず身を竦めた。
 
絶望の炎が佐倉井さんの瞳の奥で燻っている。
 
さっき聴いた、悲しい悲しいピアノの音。
まるで誰かに助けを求めるようなそんな音。
 
僕はそんなあなたをそこから救い出すことはできないから。 
それが分かっていたから。
だからあなたに会う前にやっぱり帰ろうと…そう思っていたんだ。
 
本当に。
本当に本当にごめんなさい。
 
「佐倉井さん。僕にあなたのピアノを調律することは出来ません。僕はただあの時の約束を守れなかったこと、それを謝りたくてここに来ました」
 
ただそれだけです。
最後にそう付け足してゆっくりと立ち上がる。
 
掴まれたときにはだけたシャツを整え、それから彼に小さく頭を下げた。
そして佐倉井さんの横を通り過ぎ、そのまま部屋から出ようとしたその時。
 
「待って」
 
さっきまで荒げていた声のトーンとは全く違う声。
とても同じ人物の声とは思えないほど、それは弱々しかった。
振り返ると佐倉井さんは、ピアノに寄りかかるようにして項垂れている。
そして、
 
「待ってくれ…頼む」
 
もう一度、そう言って僕を引き留めた。
 
「…俺に対して本当に悪いと思ってるなら」
 
なにを言われるんだろうって、やっぱり立ち止まらずにそのまま部屋を出ていくべきだったかもって。
そう後悔している僕に言った佐倉井さんの言葉は、
 
「調律はしなくてもいい。その代わりこれからもここに来てくれ」
 
そんな言葉で。
意味が分からず、
 
「それは…どういう意味ですか?」
 
問いただすと、
 
「言葉の通りだ、これからもここに来い。約束を破ったきみにこの申し出を拒否する権利はない、そうだろう?」
 
とても辛そうな表情でそう言う。
 
僕はこの人のピアノを調律することは許されない。
けれどそれ以外のことは制限されてはいない。
正直、彼の意図することが何なのかは分からないけれど、僕は…。
 
「分かり…ました」
 
今にも崩れ落ちてしまいそうなほど弱った彼を、このまま知らん顔で放っておくなんてこと…、できるわけないことは初めから分かっていたことだった。