★勤勉と倹約、あくなき情熱の人の大邸宅★
場所・ 山形県飽海郡遊佐町比子字青塚155
電話・ 0234−75−3145
竣工・ 明治23年(1890) 母屋
明治29年(1896) 離れ
構造・ 木造2階建て 間口12間、奥行き7間 母屋
大工・ 土門市郎左衛門を棟梁とする
公開・ 通年 9時30分〜16時30分 16時最終受け付け
休み 月曜日、12月29〜1月3日 月が祝の場合は翌日休み
料金・ 大人 400円 *当時の御値段
最終訪問・ 2020.06
*国・重要文化財
山形県と秋田県の県境、日本海に面した遊佐町の比子海岸にある邸宅です
土蔵 中は資料館
漁業王らしく、すぐ後ろは日本海で、邸内にいても波の音が聞こえてきます
こんな風情のある豪商の館もなかなか珍しいかもですね
土蔵 土蔵の上にさらに覆屋がある贅沢
ここでは、北海の漁業王、青山留吉の波乱万丈の人生と邸宅を公開しています
邸内 まるで寺社のように参道あり
要するに、今で言う貧乏から成りあがった敏腕社長という感じの方で、いつの時代にもガッツのある実業家がいた、ということですよね
神庭 6月の様子
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・夢の大地、北海道を目指して、一人孤船で日本海に発つ
青山嘉左衛門家中興の祖、青山留吉は、天保7年(1836)に父・嘉左衛門の第6子として、遊佐町青塚村に生まれました
家は貧しく、幼少の頃は父の漁業や母の酒田への行商を手伝っていましたが、18歳で鵜秋田県由利本荘市に養子に出されました
しかし、旧慣を重んじる家風に馴染めずに家に戻り、安政6年(1859)の冬、24歳の時に、北海道の漁場に一人で渡りました
最初は小樽市祝津の寺田九兵エの元で雇われ漁業夫として働きましたが、約1年後に小規模ながら同地にて漁場を開くに至りました
遊佐町と男鹿半島のつながりは深い(アマハゲ行事あり)
そして明治期の積丹半島を中心とした、うち続くニシンの豊漁により、祝津を中心に漁場を次々と拡大し、青山家はやがて漁場が15か統あまり、漁船130隻、使用人300人余りを擁する道内有数の漁業家に成長しました
一方では故郷の青塚に、明治中期に元大組頭・渡部家の土地を入手してこの本邸を建設しました
後には田地250町余を所有する大地主になり、一時は村税の8割を納めていたといいます
漁業一筋48年、明治41年(1908)73歳のときに、留吉は北海道の漁場を養子の政吉に譲り、青塚に隠居しました
外観 母屋 隠居所
そして、大正5年(1916)4月19日、山形と北海道の両青山家の興隆を見守りながら、留吉は静かに81歳の波乱万丈の人生を閉じたのでした
勤勉と倹約、そしてあくなき情熱の人であったそうです
靴脱石 石畳
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*これで遊佐町の観光は終了で次は温泉へ