★故郷に錦を飾ったせがい造りの大邸宅は国の重文に★
場所・ 山形県飽海郡遊佐町比子字青塚155
電話・ 0234−75−3145
竣工・ 明治23年(1890) 母屋
明治29年(1896) 離れ
構造・ 木造2階建て 間口12間、奥行き7間 母屋
大工・ 土門市郎左衛門を棟梁とする
公開・ 通年 9時30分〜16時30分 16時最終受け付け
休み 月曜日、12月29〜1月3日 月が祝の場合は翌日休み
料金・ 大人 400円 *当時の御値段
最終訪問・ 2020.06
*国・重要文化財
・本邸
妻の縄みたいなのは羽黒山のまじないかな
母屋の建設は、当時北海道のニシン漁場にあった青山留吉が、明治20年(1887)に企画し、分家の当主で、のちに西遊佐村長を務めた青山米吉に計画の一切を任せ、明治23年(1890)に竣工しました
大工は遊佐町宮田の土門市郎左衛門を棟梁とする人々で、離れや土蔵の建設にも関わっています(土門という苗字はこの辺に多いのか、写真家の「土門挙」さんも酒田出身)
母屋の屋根裏には建築経緯を詳細に記した、他に類を見ない形式の棟札が残されていました
母屋は桁行・間口12間、梁間・奥行き7間の規模で、下手の正面に角屋を突き出しています
庭園 6月の様子
間取りは主要8間より成り規模が大きく一軒複雑に見えますが、茶の間から中の間から下座敷から上座敷に続く構成は、基本的には庄内地方でよく見られるものです
屋根は瓦葺の切妻造りで、軒は出桁によるせがい造りとなっています
室内の意匠は柱や長押、差鴨居などに春慶塗を施した豪奢なものです
玄関 意外に質素
離れは母屋より少し遅れて明治29年(1896)に竣工しました
のれんと屋号・家紋
規模は桁行4.5間、梁間3間で、屋根は瓦葺きの寄棟造りとなっています
母屋 玄関付近
当時の青塚は茅葺や石置杉皮葺きの屋根が連なる漁村でしたので、集落内に出現した瓦葺の母屋の大屋根は、まさに「故郷に錦を飾る」ことが、建築によって表現されたものです
母屋 豪壮な梁がすごい
さらに留吉は青山家(本邸)の将来を考え、約250ヘクタールの土地を求め、地主青山家の基礎を築き上げました
母屋 仏間・神棚のある間
館内には、留吉が生前に求めた様々な美術品や船道具が展示されています
母屋 神棚・仏間
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・青山家とニシン
ヨーロッパにおいては、ニシンとタラが重要な資源でした
時には、漁場や交易を巡る紛争が戦争に発展することさえありました
日本では、江戸時代の後期には蝦夷地(北海道)におけるニシン漁が確立し、無尽蔵にとれたニシンは、食料よりもむしろ綿花などの農作物の肥料に使用され、
母屋 縁側・金庫・帳簿など
日本の近代化に大きな貢献をするとともに、多くのニシン大尽を生み、各地に「ニシン御殿」が建てられました
母屋 ちょうど端午の節句時期の展示
本町青塚出身で、小樽市で明治から大正にかけてのニシンの「ゴールドラッシュ」に遭遇し、大成功を収めた青山家と茨木家は、白鳥家と並んで祝津の「御三家」といわれました
母屋 組子細工の欄間
明治の末頃から不漁が続くようになり、漁場は次第に北上していきましたが、1950年代には北海道全土でほぼ捕獲皆無、「幻の魚」となってしまいました
母屋 釘隠し
新蔵資料「北海道ニシン大漁概況之図」と大型イラスト絵巻「漁業王青山留吉絵伝」を中心に青山家の漁業関係資料などを展示し、ニシン産業の繁栄と衰退の跡をたどります
母屋 座敷の床の間
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