小説 文禄征韓 松浦法印公 (21/30) | 日・中・韓の徒然草

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小説  文禄征韓 松浦法印公

琴里入道

第十八

 

さて、摂津守行長の重臣小西如安は沈惟敬に同行して明国へ渡った。明の朝廷では群臣会議の結果、ついに李宗誠を正使、揚方亨を副使とし、沈惟敬を随員に任命したので、小西如安は三使と共に朝鮮へ戻って来た。そうこうした後、小西行長は慶長元年正月、明使沈惟敬の願いを聞き入れて密かに沈惟敬を従えて朝鮮を発して名護屋の行宮に連れ帰り、太閤秀吉に和議が成就したことを報告した。また沈惟敬は地図、兵書、その他良馬300匹を太閤に献じた。こうして沈惟敬は朝鮮へ戻った。

 

すると沈惟敬は、己が一番真っ先に功名を挙げたいという気持ちがあり、正使李宗誠に帰国意志があるのを奇貨として、李宗誠を追い返して自分がその正使に取って代わろうと思った。このため日本から帰るや否や李宗誠に、「私が日本へ赴いて様子を探ったところ、豊臣秀吉の怒りは甚だしく、和議はもう破綻した。さらに我々3人を捕えるために万全の用意をしてすぐにもここへやって来ようとしている。私はこのことを聞いたので密かに日本から逃げ帰って来たのである。」と恐れおののく振りをして告げた。すると李宗誠はこの話が真実と思って恐怖で縮み上がり、生きた心地もせず、ついに勝手に明国へ逃げ去ったのである。

 

 

 こうして明国皇帝は副使の揚方亨を正使、沈惟敬を副使にするとともに、朝鮮に命じて黄慎、朴弘長の二人を随員にさせた。同年6月、明と朝鮮の使者は王侯に封じる旨を記した詔書を携えて海を渡り、堺浦を経由して同月29日、伏見に到着した。

 この時、加藤清正と小西行長の両将は釜山を出帆して帰国していたが、太閤秀吉は明の使者を招き、僧承兌(しょうだ)を召して詔書を読ませたところ、「(なんじ)を封じて日本国王と為す」と言うのを聞くと太閤は顔色を変えてたちどころに詔書を取り上げ、ズタズタに引き裂いて、

「わしは既に日本の天下を取った身である。王たらむと欲すれば王たるのみである。どうして明が封ずるのを待つ必要があるか。とは言え、わしが王になるにはわが朝廷を動かさなければならん。」

と常になく怒り、行長を召して、

「これ! 行長! お前はわしを欺いて我国を恥かかせたるは不忠の至りであるぞ。 おのれ! 明の使者ども! 誅殺してくれようぞ。」と仰せられた。

 
 

 行長が大いに恐れおののいていると、承兌法師が進み出て行長のために言い訳を言ってくれたので、ようやくその場は納まった。しかし、秀吉の怒りは未だ解けず、その夜、加藤・大谷などの諸将に命じて明と朝鮮の使者を追い返したのである。やがて太閤秀吉は四方面に命を下して14万の兵を出発させ、小早川秀秋を大将とし、宇喜多秀家、毛利秀元を副将とするとともに、黒田如水を参謀に充て、加藤清正、小西行長の両将を先鋒として慶長2年2月に朝鮮に渡らせた。諸将はそれぞれ釜山に上陸し、小西行長は松浦法印公らの守備兵と共に釜山に陣営を構え、加藤清正は機張から梁山を攻め落とし、西生浦に陣を敷いた。

    (明治28年2月28日付け鎮西日報)