小説 文禄征韓 松浦法印公 (20/30) | 日・中・韓の徒然草

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小説  文禄征韓 松浦法印公

琴里入道

第十七

 

こうして和睦の陰謀が明らかになったので、同年7月10日、晋州城を攻め落とし、朝鮮の大将牧司(ぼくし)を討ち取るべしと朝鮮にいる日本の諸将に命令が下ったので、松浦法印公も諸将の兵と共に晋州に向かった。

やがて晋州に到着し城を取り囲んだが、城兵はますます血気盛んになり、城を頑強に守った。このため、日本軍はすぐには城を攻め落とすことができなかった。しかし遂に、(ほり)を埋めて攻め登り、城将徐禮元(じょれいげん)金千鎰(きんせんいつ)を斬った。この時、大将の牧司が竹藪の中に逃げ隠れたのを宇喜多の家臣岡本権之烝が追いかけて牧司と戦い、脇差で討ち取った(この脇差はその後甥の花房権太夫に与えたが、今に同家に伝わるという)。

こうして日本軍はついに6万人を皆殺しし、敵将の首を塩漬けして名護屋の行宮に送った。

 
 

こうしたことを聞いて朝鮮国王は大いに驚き、さっそく急使を明国に派遣して、このことを訴えた。李如松はその途中このことを聞いて沈惟敬(ちんいけい)を小西行長の元へ急行させた。惟敬は行長に会い、「公らは和議を結んでおきながら、未だ日数も長く経たずして普州を陥落させるとは、如何なる理由からか。」と問いただすと、行長は顔を赤くして反問し、「(なんじ)は和議を請いながら、明兵が朝鮮に入って来ているのはどういうことだ。」と(なじ)ったので、惟敬は何とも答えようがなく、手持ち無沙汰で立ち去った。

 
 

こうしてその年も暮れ、明けて文禄3年となった。正月、松浦法印鎮信公は、明兵が蔚山(ウルサン)に立て籠もっているのを聞いて蔚山へ進撃したが、到着した時には既に明兵は撤退しており、跡形も(とど)めていなかった。

7月17日、明将高龍慶(こうりゅうけい)は数万の兵を率いて普龍山へ攻撃して来た。

法印公はこれを聞き、手勢を率いて高龍慶軍と4時間ばかり戦いを繰り広げ、遂に敵将高龍慶をはじめ雑兵680人余りを討ち取った。

残兵たちはこれに恐れをなして東西に逃げ散った。

 この戦いで、味方の勇士林総次郎、畑野嘉太夫をはじめ武士17人、雑兵80人余りが戦死した。

 
 

 同年10月10日、4万余の朝鮮兵が慶凉川(けいりょうせん)に攻め寄せたので、法印公は手勢を率い、黒田・立花の兵と共に防戦した。敵兵たちはしばらく戦っていたが、日本兵の矛先が鋭いので交戦し難く、遂に総崩れになって北へ逃亡して行った。この戦いで、法印公の軍勢のみで討ち取った敵の首は300級余りで、原信平、池河源右衛門の勇士をはじめ71人の雑兵が討ち死にした。

 

 明けて文禄4年の5月7日、栄齢山に朝鮮兵2万人余りが立て籠もっていることを聞いて、法印公は選りすぐりの手勢を率いて攻撃した。旗奉行の西清右衛門が必死の働きをなして戦い、敵兵を多数討ち取り、小佐々喜兵衛も勇を(ふる)って戦い、これまた10人余りを斬り倒した。こうして敵の首200余りを討ち取り、味方は加藤左次右衛門、榎森平兵衛らの武士が戦死し、その他雑兵らの討ち死または負傷した者は67人に及んだ。

         (明治28年2月27日付鎮西日報)