小説 文禄征韓 松浦法印公 (22/30) | 日・中・韓の徒然草

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小説  文禄征韓 松浦法印公

琴里入道

第十九

 

明国の君臣は罪を大司馬の石星に負わせ、その官職を剥奪した。そして協議し、朝鮮3道を割いて秀吉に与えることにしたのは沈惟敬が口実を作るためにしたもので、既に罪を負わせようとしたが、これを許すことにし、さらに日本との和睦をやめるよう皇帝に説得させたのであった。

そうしたところ、加藤清正と小西行長の両先鋒は朝鮮3道の地を明国が日本に献じない旨を使者を遣わして太閤秀吉に報告したので、太閤は両将に命じて先ず全羅道の諸城から攻撃させた。

 
 

この時、沈惟敬は朝鮮国の南原にいたが、朝鮮人らは沈惟敬を指さして、「沈惟敬は売国奴であり、明と朝鮮、日本の3国を欺く裏切りの臣である。」と言い立てた。沈惟敬は大いに困ったが、なんとかして主戦論者の加藤清正を退却させようとして、遂に加藤に書を送って言うには、「3国の講和がまさに無為に帰そうとしているが、貴殿が太閤に勧めて和議を破らせたので大明皇帝は大いに立腹され、刑総督に命じて70万の精兵を以てまず貴殿から最初に攻撃することにした。貴殿は速やかに兵を引いて和議を請いたまえ。」と言うのであった。

加藤清正は笑って、「わしは、かねてから朝鮮兵が弱くて相手にならぬのを心配していたが、今明軍70万が攻めて来るのはわしが望むところである。これ幸い、一大決戦をやってみようではないか。大いに愉快だ。」と返事を送った。

 
 

 すると、沈惟敬はこの返書を開き見て恐怖で縮み上がり、身の置き所もなかったが、このような時こそ和平主義者の小西行長に身を寄すべきであると考え、小西の陣に身を投じることを請うた。法印公は沈惟敬が偽りを申す者であることを知っていたので、また甘言を用いて行長を説き欺こうとしていると行長を戒めて、沈惟敬の請いを拒むよう説得したが、行長はこれを聞き入れず、沈惟敬を許して使者を派遣して呼び迎えようとした。ところが沈惟敬はやって来なかったので、行長はここで初めて騙されたことに気が付いたのだった。その後間もなく、沈惟敬は南原にいた明軍の揚元から殺されたのである。

 
 

 

 慶長2年7月、法印公は諸将と共々、閑山唐島を襲い、韓将元鈞の軍を破った。諸将は互いに功を争って止まないので法印公は間に入って、「方々はどうして功を争いなさる。今は力を尽くして国に報いる時でござる。この鎮信、功を争う場合ではないと思いますぞ。」とおっしゃったので、諸将はそれ以来口をつぐんで、功争いを止めた。

 

 やがて同月下旬、法印公は行長たちと共に密陽から進んで南原に入った。南原城の敵将揚元に書を送って戦の期限を通告し、2昼夜にわたって南原城を攻撃した。しかし城をなかなか落とすことができないので、こうなっては敵兵が疲れ果てて休憩するのを待ってから攻撃するのがよかろうということになり、わが兵は一応退却した。

 

再び軍を進めて攻撃しようとしたが、この時法印公の軍勢は先鋒となり、一番駆けで城壁の下に着いた。他の軍勢が到着するのを待っていると、城兵たちは我が軍が油断するのを見澄まして、旗持ちの浦川紺右衛門が持っている三星(みつぼし)瓶子(へいし)の旗を不意に奪い取ろうとするので、紺右衛門は言うまでもなく小頭の土肥彌右衛門共々、旗を取られては我が軍の恥として取られまいと懸命に努めた。これを見て旗奉行の西清右衛門は、「わしに思うところがある。その旗は敵に渡されよ。」と命令した。二人は承知し、旗から手を離すと敵兵たちは自分たちの力が勝ったと思い、奪い取って城中を持ち歩いていた。

 遠くにいる日本軍の諸勢は、「あれ、見られよ。城中にある三星瓶子の旗、さては松浦勢は既に一番乗りしたぞ。」と一同叫びながら先陣と後陣が先を争って進撃して来ると、西清右衛門はその勢いに乗じて一番駆けで城中に乗り入れたのであった。

 (明治28年3月1日付け鎮西日報)