「規律は良好」「準備された防御体制下では死ぬまで戦う」「射撃下手」「予想外の事態が起きるとパニックに」……あの戦争の最中、米軍は日本兵について詳細な報告書を残していた。”敵”という他者の視点から、日本人には見えない問題をえぐった話題の書、一ノ瀬俊也『日本軍と日本兵 米軍報告書は語る』より「第二章 日本兵の精神」を特別公開します(全3回)。




敵だった当時の米軍から見た日本兵に対する評価は、このようなものでした。


大東亜戦争(※太平洋戦争) 序盤に於ける帝国陸海軍の『大戦果』に対して、米軍将兵のなかに蔓延していた「未知なる敵」に対する恐怖心 を払拭し、日本軍の実像を知る目的から、あらゆる手段を用いて日本軍を分析しようとする試みがありました。


当時としては、可能な限り人種的偏見は排されており「軍規が良好で、周到に擬装された防御陣地を構築して徹底抗戦する」ことが高く評価されている一方で、

「柔道をはじめ武道の心得のある戦闘民族」という虚像 は否定され、個人の銃剣格闘や射撃で劣る「弱点」が指摘されています。



【沖縄戦】


第32軍 の高級参謀 だった 陸軍大佐 八原博通「寝技戦法」は、沖縄戦の序盤で、米軍部隊を大いに苦しめました。


沖縄の硬い珊瑚礁の地盤にトンネルを掘って作った防御陣地の直前まで米軍部隊を誘導すると、

重機関銃、軽機関銃等で掃射して戦車部隊と歩兵部隊を分断し、

次いで敵戦車を、対戦車砲、山砲、野砲、地雷、歩兵の肉弾戦によって撃破し、敵の増援部隊を重榴弾砲、野戦重砲・重砲の砲撃により周到に打撃を与えました。


しかし「水際作戦」を主張する大本営をはじめ、陸軍上層部とは対立しており、

持久戦が、沖縄県民に多大な犠牲を強いてしまったことと、最終的に捕虜になった際の状況が 軍服を脱ぎ捨て「民間人」と身分を偽っていたことから(※)戦後も多くの旧軍関係者から嫌われ続けており、私自身も八原のことを「卑怯者」だと思い込んでおりました。

(※上官である牛島中将が自決した後、牛島の命令に沿って本土に戦訓伝達をする目的からであった)





しかし、そんな 八原大佐 を高く評価していたのは、敵である米軍でした。

高嶺村真栄里(※現・糸満市) で バックナー中将(※死後「大将」に昇級) が戦死しており、これは 第2次世界大戦中の米軍の戦死者のなかで最高位の階級 であり、
沖縄戦における日本軍の抗戦の意志とともに、米国本土に衝撃を与えていました。




【日本の抱える問題点】



大本営の誤った敵情判断によって沖縄防衛の要であった 第9師団 を台湾に引き抜かれてしまい、

補充の戦力もない圧倒的不利な状況のなかで判断を迫られた 八原大佐 のような参謀がいた一方で、


組織や人事の欠陥、浪花節のような悪癖は、旧軍が解体された戦後も官公署や企業なんかに脈々と受け継がれているように見えます。




  



旧軍大日本帝国 を自分自身の問題として考えてこなかった人間が主張する「安全保障戦略」なんて、こんなものです。


超左翼おじさんの「本土決戦論」が悪質なのは、他にとるべき手段があるにも関わらず、敢えて破滅的な選択肢を掲げている点に尽きます。