連合赤軍の『最高幹部』の永田洋子(ながた ひろこ)。
大学の薬学部に通わせてもらえる程度に裕福な家庭で暮らし、病院の薬剤師として働いていた永田が残忍な『魔女』となったのは、女性的な『美』に対するコンプレックスが根底にあったとされている。


【連合赤軍とは何だったのか?】
昭和30年(1955年)に開催された日本共産党 第6回全国協議会(※六全協)によって、日本共産党が此れまでの暴力革命方針を放棄することにしたのに伴い、
六全協以降の共産党の方針を受け入れられずに離反した党員らの中には、東京都渋谷区千駄ヶ谷に本部を構える日本共産党とは別の『日本共産党』を名乗ったり『共産主義者同盟(※ブント)』などの別の党派を作って武力闘争を継続していました。


一般的に、共産党といえば千駄ヶ谷に本部が置かれている左翼政党のことを指しますが、
六全協で離反したグループ(※左派、革命左派、ML、行動派など)からは現在も『代々木』(※党本部は千駄ヶ谷にあるが、最寄駅が代々木駅であることから)と呼ばれており、各々が『正統な日本共産党』を名乗っている状況であります。


『連合赤軍』は、日本赤軍の母体となった共産主義者同盟(※赤軍派)』『日本共産党(革命左派)神奈川県委員会』が合流して結成された新左翼党派(※極左暴力集団)でありました。


赤軍派は、日航機をハイジャックして北朝鮮に亡命した『よど号グループ』や、パレスチナのゲリラに加わった重信房子らの、後に『日本赤軍』と呼ばれるグループなど、国際テロリストとして有名になってはいたものの、
それは同時に、主要幹部の逮捕を招いたのに加え、指導的役割を果たせる比較的有能なメンバーが国外に流出してしまったことから、
控えめに言っても『カス』ばかりが生き残って、組織としては弱体化の一途を辿っておりました(笑)。

そこで、同じく武装闘争路線を取る日本共産党(革命左派)神奈川県委員会の下部組織である『京浜安保共闘』(※以後『革命左派』) のメンバーと共闘することによって生き残りを図ろうとしていました。

永田洋子も、この革命左派出身のメンバーであり、連合赤軍の最高幹部となる人物でありました。

赤軍派も、革命左派も、共に日本共産党をルーツに持つセクトでありましたが、
考え方の違う党派同士の『寄せ集め』である連合赤軍は、山中に引きこもったまま、これといった『成果』を挙げることができず、メンバーのなかには焦りと恐怖が渦巻き、いつ誰が裏切るのかという疑心暗鬼に陥っておりました。



【永田洋子は、今で言うところの『ツイフェミ』みたいなもの?】


永田洋子は、比較的裕福な家庭に生を受け、学生運動に参加しつつも共立薬科大学薬学部を卒業して薬剤師として働いていましたが、
学生時代に『バセドウ病』に罹患してしまいました。

バセドウ病は、甲状腺疾患の一種でホルモンバランスの異常から容姿が変形することもあり、永田にとって、この病気がコンプレックスとしてドス黒い影を落とすようになりました。


また、大学在学中に共産主義者同盟マルクス・レーニン主義派の学生組織(※社学同ML派)のメンバーとして学生運動に参加しており、
大学卒業後は、薬剤師として働く傍ら、前述の革命左派の下部組織である『京浜安保共闘』のメンバーとして運動を続けていました。

しかし、当時の左翼学生運動の世界においても、組織内での女性の地位は決して高いものとは言えず、
いくら革命を標榜していようと指導的役割は男子が独占しており、女子はせいぜい飯炊き要員かオルグ(※勧誘)する際のマスコット程度の役割しか求められていませんでした。

連合赤軍の最高幹部としての地位を手に入れた永田洋子は、赤軍派最高幹部である高原浩之(※よど号事件で逮捕、事件当時は獄中)の妻であり、赤軍派系メンバーのなかで女房然として振る舞っている遠山美枝子を嫌っていたようで、
会議中に髪をといだことや、指輪をしていることなどが男に媚びる『古い女』で『反革命的』であると決めつけ、殆んど言い掛かりに近い理由で長期間に渡ってリンチを加え、最終的に死に至らしめています。

最近ネットで度々話題になる、Twitterを中心にSNS上で活動する過激なフェミニスト(※ツイフェミ)を彷彿させられるものであり、
自己と他者の女性らしさを全否定し、誰彼構わずに噛みつきまくるツイフェミの姿は、永田洋子の亡霊に取り憑かれていると考えれば合点がいきそうであります。



革命を目指す当時の若者であっても、我々の世代からしてみれば昭和の老人です。

今では考えられないくらいの男尊女卑的な価値観に脳髄を支配されているのに加え、うぬぼれ屋で傷付きやすく、道徳的にも未熟な活動家(※男性)の女子に対する扱い方なんか、推して図るべきであります。


イキリ男子と、それを受け入れる愛嬌のある女子達とイチャイチャする姿を、根性までねじ曲がった『醜女』が見たら、そりゃあ ただでは済まないでしょう。


よりにもよって、そんな奴(※永田)に権力なんか握らせてしまったわけですから、死人が出ても不思議ではありません。


極寒の冬山で食事を与えず、トイレにも行かせないまま暴行を加えるなど、被害者の人間性を否定する苛烈なものであり、
平成20年に公開された『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』では、女優の坂井真紀演じる遠山が尿意に耐えきれずに『おもらし』してしまうシーンも残っています。

遠山の行動の何が問題なのか理解できず、遠山に対して同情的であった赤軍派系のメンバーらも、共産主義党派のメルクマールである『一党独裁』『民主集中制』の下では最高幹部には逆らえず、暴行に加わるようになっていきました。

この一連のリンチは『山岳ベース事件』と呼ばれ、遠山を含めて男女12人が犠牲となっており、
『陰険なブス』の嫉妬と憎悪の恐ろしさを見せつけられるものであります。



【総括とは?】
山岳ベース事件においてしばしば登場する『総括』という言葉。

連合赤軍が行ったリンチそのものを指して総括だとする意見もありますが、それは『総括援助』と呼ばれるものであり、
総括は『自己批判』の事であり、弱体化した党組織を建て直す上で、未熟なメンバーが『革命戦士』として共産主義化するために必要な通過儀礼と考えられていました。

だから、指導部から総括するように要求された者が、自力でその境地に辿り着けない場合、
仲間が、その同志の『総括』を『援助』するために、身体的虐待を加えることも肯定的に捉えられていました。

この、連合赤軍で行われていた『総括』という儀式を語る上で、総括援助のために暴行を加える加害者と被害者の関係が曖昧になりがちでありますが、
閉鎖された環境のなかで、逮捕や裏切りの恐怖のなかで疑心暗鬼になったカルト集団が殺し合いをしていたという事実は変わりありません。

中共の毛沢東に心酔して、農民戦争をモデルに山岳ベースを建設して革命闘争に備えていた連合赤軍のメンバー達でしたが、
総括する上では毛沢東の行動も批判の対象にされるなど、支離滅裂でありました。



【事件は まだ終わっていない】
結局、連中のうち生き残ったメンバーの坂口弘ら5名によって『あさま山荘事件』が起こされましたが、
メンバーの1人である坂東國男の母親が、拡声器で投降を呼び掛ける際、同年2月に、ニクソン大統領と毛沢東との間でなされた『米中共同宣言』を引き合いに連合赤軍の武装闘争が無意味であることを伝えたものの、坂東はそれに対して銃で答えました。

連合赤軍が山中に引きこもっているうちにも、国際情勢は刻々と変化しておりました。

連中の思惑とは裏腹に、目標としていたイデオロギーが破綻してしまい、
連合赤軍は、そのことを受け入れられないまま形振り構わなくなり、機動隊との銃撃戦が続きました。


そして、逮捕された5名のうち、
坂東國男は日本赤軍が起こした『クアラルンプール事件』で、
テロリストの要求に屈した日本政府によって釈放され、そのまま日本赤軍に合流し、今なお逃亡中であります。

坂東の父親は、あさま山荘への機動隊突入を前に首吊り自殺してしまいました。

母親の悲痛な訴えも無視して、再び無意味な暴力革命闘争に加わるとか、何がそこまでさせるのやら。

これこそ『ナンセンス』てすよ!!



 

 


重信房子の釈放で、事件も『過去のもの』にされようとしていますが、
日本赤軍・連合赤軍が起こした事件は、今も終わったわけではありません。



【日本共産党は信用できるか?】

なにこれハズカシ~(笑)!!


日本共産党も、かつて武装闘争路線を取っており、

『第二次共産党』『武装共産党』と呼ばれた頃の共産党は、合法的な労働組合運動に武力介入して主導権を握ろうとしたり、銀行強盗なども行う『ゴロツキ集団』であることは以前にも紹介しています。



また、後に共産党議長を長年勤めることになる宮本顕治をはじめとするメンバーが、昭和8年に党員である小畑達夫らをスパイと断定して暴行を加えて小畑が死亡。

負傷しつつも脱出した大泉謙蔵らが警察に助けを求めたことによって事件が発覚しましたが、
宮本らは戦後のどさくさに紛れて釈放され、事件そのものも有耶無耶にされてしまいました。


連合赤軍の山岳ゲート事件や、赤軍派(※日本赤軍)をはじめとする『極左暴力集団』による一連の犯行は、

どれも、嘗ての日本共産党が起こした事件の『焼き直し』『模倣犯』としか思えないものであります。



しかし、共産党はそれらの党派との関係を一切否定しており、

『ニセ「左翼」暴力集団』という造語を用いてまで、自分達は一切間違えたことのない唯一正しい存在だと信じて疑わないのだからお寒い限りです。