私が『憲法改正案』を作成するにあたって最も気を付けたことは、憲法の条文のなかで『~主義』という単語を絶対に書き加えないことでした。


国家の最高法規である憲法の下に、法律や政令などがつくられていくわけですから、

憲法が特定のイデオロギーを掲げるのは相応しくないと考えるからです。


今日においては『民主主義』という単語は、誰もが疑うことなく、政府も、国民も、皆が用いるものでありますが、

実際には、国民が主権を行使する方法としては、選挙された代表者が政務を行う『代議制』と、町内会や地区の自治会など小規模の集団における『直接民主制』があるのみであり、それを以て『民主主義』だと思っている人が殆どでしょう。


しかし、北朝鮮(※朝鮮民主主義人民共和国)のような『民主主義』も現に存在します。


日本共産党も、党の指導体制『民主主義的中央集権主義(※民主集中制)』のほか、下部組織や共産党系の業界団体に『民主青年同盟(※民青)』『民主商工会』『全日本民主医療機関連合会(※民医連)』といった風に、民主主義という単語を濫用しまくっておりますが、

共産党のなかで、どのようなことが行われているのか少しでも知っている方なら、それが我々の言うところの『民主主義』からは、かなりかけ離れたものであることくらいは理解できると思います。


『民主主義』という単語を掲げるだけでは、我々が期待するような自由や権利が守られる保証など無いのです。



 


そもそも『民主主義 = 平和』という思い込み自体が間違いであり、政治家も、国民大衆も、人の数だけ多様な『民主主義』のあり方が存在し、

自由で開かれた社会であればある程、それぞれの多様な価値観がぶつかり合い、それが深刻な対立を招くことにも繋がります。


 


ネットで様々な人々と接する機会が以前よりも多くなったように思える現代に於いても、

同じ考え方の者同士でつるんで違う考え方を持った人を拒絶したり、

昨日まで仲間同士であっても、名主のような『お山の大将』に対して異論を唱えたばかりに『村八分』どころか完全に排除されてしまう『ムラ社会』であることに変わりはありません。


そのような日本の民主主義も、所詮は『田吾作・権兵衛の民主主義』『熊公・八公の民主主義』のレベルでしかないのです。


地方で暮らしていると、筋の通らない不正がまかり通ることや、田舎者の僻みや足の引っ張り合いを目の当たりにすることも多いですし、

落語の世界では、熊さん八っあんも、純朴な庶民の象徴でありますが、今も昔も、庶民は無責任で残酷な一面を見せることもしばしばあります。


私は、そのような『民主主義』を、全く信用していません。


いわんや『国民主権』もや。




過去の歴史に於いても、フランス革命で王政に代わって権力を握ったジャコバン派(※山岳党)のロベスピエールが政敵をギロチンで処刑しまくったり、

当時、最も民主的とされていたヴァイマル共和制のドイツ国において、選挙によってナチスが台頭し、アドルフ・ヒトラーという大統領と首相を兼任(※総統)した独裁者が台頭した事実があります。

それらも全て『民主主義』を過大評価した結果、招いた『悲劇』であります。