『光る君へ』第24回を視聴して | よどの流れ者のブログ

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『源氏物語』『紫式部日記』『紫式部集』の著作者 紫式部について考えたことを書きます。 田川寿美のファンです。

前回終わった場面からつづきがはじまった。「わしの妻になれ」と宣孝が言ったところだ。この、自分のことを「わし」と言う言い方が気にならないほど自然な台詞回しだった。次から次へと決め台詞が続く。まひろは呆気にとられたようだったが、いい顔をしていた。宣孝演じる佐々木蔵之介は満を持していたかのように畳みかける。「忘れえぬ人と言われて途端に心が揺らいでいた」と、まひろは図星を突かれた。宣孝はそうしたまひろを見抜く観察眼を持っていたのだ。佐々木蔵之介がここまでうまく演じるとは思っていなかった。台詞が決まっていた。吉高由里子もさすが主人公だ。心の内を少し表にさらす加減が絶妙だ、と思った。

 

 

周明はつらい立場にあると思っていた。「わかってくれるのはまひろだけだ」と同情を誘い、宋への関心を抱くまひろに宋の国へ一緒に行こうとさり気なく誘う。まひろは人を見る目をしっかり持っていた。大きな花瓶を割って、その破片をまひろに突きつけた周明は、左大臣に文を書けとまひろに迫った。不自然な演出だ。大仰に過ぎる。もっと自然に見せるやり方があったように思う。それほど周明が追い詰められていたのだろうか。「お前を殺して俺も死ぬ」という台詞は周明には似合わない。そんな気がした。彼にふさわしい演出、台詞を思いつけなかったのだろうか。目の前で虫けらのように殺された母のことをまひろは持ち出して、一歩も引かない。これは?、と思う場面と、なかなかやるな!、という場面が交互に現れて戸惑った。直秀のときもそうだったが、周明の描き方も中途半端だ、と思った。

 

使命を果たせなかった周明はまひろとはもう会わない選択をしたように見える。朱仁聡はそれを許すだけでなく、周明の気持を思いやっていた。前の時は、周明を取り囲んで、失敗は許さないという圧迫感をもたらしていたように思ったのだが、私だけがそのように思ったのだろうか。周明はこれからどうするのだろう。出番がなくなったように思える。直秀のようには殺されないようなので、これはよしとするべきなのだが、何か釈然としない。

 

それにしても、周明のことを「あの人も精いっぱい」と思えたまひろは懐が深いと言うべきか、おめでたいと言うべきか、それとも人物観察眼の優れたまひろには、自分を殺すようなことはしないということがよくわかっていたからなのか、余裕のひと言のように聞こえた。

 

部屋に閉じこもっていたまひろを気遣った乙丸に「お前はなぜ妻を持たないの?」とまひろが唐突に訊ねた。乙丸の一身上のことが取り上げられたのは初めてのことだ。どのように答えるのだろうか。相手がいない、生活ができない、などの答えが瞬時に思い浮かぶ。「北の方様の時は何もできなかった」と乙丸は答えて、「せめて姫様だけをお守りしようと」と続けた。滅私奉公とはこういうことを言うのか。ここまで言う乙丸が何を思って生きているのか、これからも問いかけてやってほしい、と思った。脇にいる人物の人生が見えてくると主人公の人生もより深く見えてくる、というのがドラマをよく見る私の持論です。

 

伊周が恐ろしい形相でにらんでいると詮子が道長に訴えた。ドラマの中で、伊周にやましいことをしたことになっている詮子なので、その報いとして描かれたのだろう。一条天皇は伊周と隆家を召還することにした。「朕が愚かであった」と一条天皇は呟き、道長に「あのときに止めてほしかった」と言うだけでなく、「母上を呪詛したのは噂に過ぎない」「矢も車に当っただけ」ということを「その方は知っておったのか」と、妄想のようなことを言い募った。

 

 

伊周と隆家は冤罪だったと言わないばかりの話だ。伊周があれほどみっともなく逃げ回ったのは冤罪だったのではないか、とは(妄想のように)思っていたが、今ごろになってこのような描き方をするとは、戸惑ってしまった。時代考証の倉本一宏教授は著作『藤原伊周・隆家』では、召還された後にもう一度伊周が呪詛事件を起こしたときには、道長陣営の陰謀かも、と言葉を濁されています。一条と定子の子、敦康親王の立太子の可能性もあった、ということでした。長徳の変の時点で伊周23歳だった。まだ若い、慌てることなど何もなかったのだ。しかし道長が手を拱いていては手にした権力を逃してしまうと考えた、とする方が自然かもしれない。それにしてもここに至って、NHK制作陣はなぜここまで惑わせる描き方をしたのだろうか。「俺は斉信にしてやられた」なんて台詞をことさら道長に言わせたのか、意図がわからない。話が錯綜混乱している、というよりドラマ制作陣が支離滅裂し出した兆候のような気もしてきた。

 

召還された隆家が帰ってきた。道長に取り入っていた。伊周との違いを強調する姿に嫌らしさを感じる。車に向けて矢を放った言い訳をしなかった理由が、何を言っても信じてもらえないと思ったから、なんていうのもおかしな話だ。まさに陥れられようとするのに潔白を主張しないということが理解できない。あらためて道長が隆家に問いかけたのもおかしな話だ。いい加減な描き方だ。隆家の人物造型が一貫していない。『栄花物語』や『大鏡』だけでなく、実資の日記『小右記』でも隆家は筋を通す男らしい人物として描かれているのに、どういうつもりなのだろうか。

 

 

明子のところで道長はここぞとばかりくつろいでいた。明子も満足そうだ。倫子は詮子と同居の身で気苦労が多そうだが、子育てに追われているようには見えない。この997年までには、10歳前後の彰子を筆頭に4人の子どもを産んでいる。それぞれに乳母や侍女がたくさんいたはずなので忙しくなかったのかもしれない。明子と倫子を対照的に描いているようだが、それぞれ6人の子どもたちが成長すると、くっきりと格差が生まれるのだが、ドラマではそこまで描くつもりだろうか。

 

一条天皇が詮子を見舞った。詮子もうれしそうだ。「波風が立っても構わぬ」とばかりに一条は、娘を内親王に、中宮を内裏に呼ぶと決意のほどを伝えた。「最初で最後のわがままである」と母詮子に訴えた。「叶えて差し上げて」と詮子は道長に指示した。道長は当惑した。公卿たちが反対するのを見越してのことだ。内裏ではなく隣接する職御曹司に中宮を受け入れることを行成が提案して道長も納得した。詮子が内裏から東三条院に一条と一緒に退出していたときに、道長は叔父として一条と接触していたことを史料は伝えている。権力を持ちつつある叔父として、一条の願いを聞き入れることくらいはいくらでもできる道長だったと思われるのだが、一条の決意を傍で聞いても、さすが道長と思われるようなことは積極的にはやろうとしないように見える。

 

職御曹司に入った中宮定子のもとに一条天皇が訪れた。久しぶりに中宮に会えて、初めて娘に会って、一条天皇は心の底からうれしそうだ。感動の場面だ。NHK制作陣は道長でなく、一条天皇を主人公にしていたらよかった、と思ったのではないか、とまた思った。

 

(唐津市鏡神社)

 

さわが亡くなった。まひろ宛の文だと、為時から渡されたときのまひろは怪訝な様子に見えた。誰からだろう、不吉な、と言う思いがよぎったのだろうか。

 

ゆきめぐり あふをまつらの かがみには たれをかけつつ いのるとかはしる

 

この和歌は『紫式部集』にある歌だ。遠い国をめぐりめぐって都で再び逢えるように待ち望む私は、ここ松浦の鏡神社の神様に、誰のことを心にかけてお祈りしているか、おわかりでしょうか、という意だ。この歌は紫式部が贈った歌の返歌として肥後から越前に送られてきたことになっている。

 

筑紫に肥前といふ所より文おこせたるを、いと遙かなる所にて見けり。その返り事に

あひみむと 思ふ心は 松浦なる 鏡の神や 空に見るらむ

 

あなたに逢いたいと思うわたしの心は、そちらの松浦に鎮座まします鏡の神様が空からご覧なっているでしょう、という意で、紫式部と女友だちとはそれぞれに、姉と妹を失っていて、その亡きが代わりに思い思って、文の上に姉君と書き、中の君と書いて便りを交わしていたのだ。肥前から都まで15日、都から越前まで4日の行程だったという(以上新潮古典集成より)。

 

まひろが「この歌を大切にします」と言ったが、しっくりしない。紫式部の姉を登場させなかったために、さわとの交流も中途半端な描き方となったような気がする。このドラマでは脇役が生きていない、という気がずっとしている。作家が自ら起ち上げていない人物だから、という気がしている。実際にあった人間関係を都合に合わせて切り捨て、道長を中心に再構成する過程で無理が生じているのだ。

 

ドラマではこの後、まひろが為時に、宣孝の妻になろうか、と告げる。さわが亡くなって、生きているのがむなしい、と言うようなことを言い訳としてまひろが呟いた。「父が不承知ならやめる」と言ったかと思ったら、「宣孝の言葉が胸にしみた」「楽に暮らせるから・・・子どもも産んでみたい」と続けたのには、何を言っているのだろう、紫式部はこんな言い方はしないだろう、と思いながらも吉高由里子と岸谷五朗のやりとりは面白く見ることができた。

 

1.脚本=会話は練られているか、恣意的になっていないか(10→5点)2.構成・演出=的確か(10→4点)3.俳優=個々の俳優の演技力評価(10→6.28点)4.展開=関心・興味が集中したか(10→6点)5.映像表現=映像は効果的だったか(10→5点)6.音声表現=ナレーションと音楽・音響効果(10→7点)7.共感・感動=伝える力(10→4点)8.考証=時代、風俗、衣装、背景、住居などに違和感ないか(10→6点)9.歴史との整合性=史実を反映しているか(10→3点)10.ドラマの印象=見終わってよかったか(10→4点)

合計点(100-50.28点)

 

ここからはNHK大河ドラマ『光る君へ』全般について書く

 

今回の冒頭で宣孝がまひろに言った言葉には強い説得力を感じた。当時には聞かれなかった言葉ではないかとは思うものの、当時にあっても現代にあってもなかなか言える言葉ではないし、突き刺さる言葉だ、と思う。今回のドラマで宣孝がどのように描かれるのか、心配だった。道長の当て馬にされるのではないか、と言う懸念があったからだ。道長の子を宿したまひろが宣孝に助けられた、というようなところだ。実際、このことを含めて、為時が越前守になれたのも、道長が紫式部のためにしたことだ、と言う学者がいる。理解しがたいことだ。

 

    

 

『紫式部集』36・37番歌に結婚後間もない紫式部と宣孝との贈答歌がある。

 

桜を瓶に立てて見るに、とりもあへず散りければ、桃の花を見やりて

36 折りて見ば 近まさりせよ 桃の花 思ひぐまなき 桜惜しまじ

 

返し

37 ももといふ 名もあるものを ときの間に 散る桜には 思ひおとさじ

 

以下現代語訳(「平安王朝クラブ」サイトより引用)

桜を瓶に挿して見たところ、すぐに散ってしまったので、桃の花を見やって詠んだ歌

36 折り取って見たならば、近まさりするのであってほしい、桃の花よ。こちらの思いなど汲みもせず、散ってしまう桜などに未練は持ちますまい。

 

37 百に通ずる桃という、長寿を示すめでたい名もあるものだから、あっという間に散る桜に比べて、劣っているとは考えまいよ。

 

36番歌は紫式部の歌で、自身を桃の花、他の女を桜に例えている。37番歌で宣孝は、すぐに散ってしまう思いやりのない桜より桃の花だと、紫式部を持ち上げている。

 

こうした歌のやりとりをすることでお互いのあり様を理解し、気持が通じるかどうか、確かめ合っていったのでしょう。『紫式部集』は『源氏物語』を書き終わった紫式部が晩年に自選した歌集で、自伝のような編集がされているように思います。紫式部は宣孝との愛を育み、子を産んだと思ったら、宣孝に流行病で死なれてしまう。それからまもなくして『源氏物語』を書きはじめたと言われています。