『光る君へ』第25回を視聴して | よどの流れ者のブログ

よどの流れ者のブログ

『源氏物語』『紫式部日記』『紫式部集』の著作者 紫式部について考えたことを書きます。 田川寿美のファンです。

気持ちよくドラマは見たいものだ、と願いながら見はじめましたが、思うようには行きません。気持ち悪くなるなら見るのを止めたら、と言われるに決まっているので、家では口には出しません。NHK制作者が何を思っているか、ドラマを見ていると大体はわかってくるので理解するように努めるのですが、今回は全く理解不能でした。

 

 

ドラマの後の『光る君へ紀行』でも紹介された越前和紙の製造現場を為時とまひろが訪れたところから今回ははじまった。お偉方の視察みたいな、とってつけたような場面だった。ドラマの流れとは別の情景だ。まひろがまず越前和紙に惚れて、仕えている女に頼んで造っている所へ行ったというようなエピソードなら時間は同じように流れる。余剰分の和紙の納入のエピソードも問題点に向き合う正面切っての描き方に見えなくもないが、為時の独り相撲にしか見えず、それでどうするのか、ということもなく終わってしまう話に堕ちてしまっていた。それとなく為時が気づき、まひろに紙を分けてやる、でよかったのではないか。

 

越前に来てからのまひろは周明との中国語レッスンに明け暮れていたが、その間に越前和紙のエピソードを挟んだ方が流れもよかったのではないか、と今さら思う。乙丸ときぬとの出会いのエピソードも短く2カットくらい描いていたらよかったのに、と思った。乙丸が言い寄られる場面を想像するだけで気持が和む。そうすれば、二人への親しみの湧き方が倍増したのではないかと思う。周明との出会いと別れは何のためだったのだろう、本当に中途半端だ、という気がまだしている。故郷の島へ行く、とかいうなら、その場面を少し入れたらよかったのではないか。ついでに言えば、いとにいい人ができるのは構わないし、歓迎すべきだと思うが、描き方に違和感がありすぎた。「言うことを聞く人」が一番という講釈にはついて行けなかった。何の取り柄もない、といってはいとさんに失礼かも知れないが、このように寄り添う男の気が知れない、というのもある。こんなことは書きたくなかったが、不自然な演出ばかりなので言えてしまう。

 

(雪の伊吹山)

 

まひろが都に帰る途上の琵琶湖では、伊吹山の雪景色を見せてほしかった。『紫式部集』の72番歌に

 

みづうみにて、伊吹の山の雪いと白く見ゆるを

72 名に高き 越の白山 ゆきなれて 伊吹の嶽を なにとこそ見ね

 

名高い越の国の白山へ行き、その雪を見馴れたので、伊吹山の雪など何ほどのものとも思われないことだ(陽明文庫本新潮古典集成より引用)、という意で、越前ではほんの僅かしか歌を残していない紫式部が都を間近にして越前のことを思いながら感慨深げに詠んでいる。伊吹山は日本武尊が命を失う元となった存在感のある山で、琵琶湖周辺から見る伊吹山ははっとするほど美しいのですが、白山はもっと見映えがしたのでしょう。琵琶湖の西には比良連峰の山並みがあり、こちらも雪が降れば美しい。比良連峰も、比叡山も紫式部は湖上から見たはずです。

 

(雪の比良連峰)

 

道長と倫子の子どもたちが出てきて道長に抱かれていた。清明が言っていた凶事に備えるために左大臣道長ができる「お宝」とは、長女彰子のことだろう。清明は道長にあえて言わなかったが、左大臣に対して、そんなの有りだろうか。清明はそんなに偉いのか。視聴者にはわからないような耳打ちでよかったのではないか。何もかもが不自然すぎて、清明の態度も含めて気持が悪い。

 

隆家が道長に売り込みをしていた。気に入らない。実資もまた、何もかも気に入らないことばかりらしく、すべし、すべし、と呟きながら日記を書いていて、オウムが真似をしていた。内容はともかく、彼にはいつも同調共感してしまう。

 

一条天皇が政を放り出して、定子のいる職御曹司に入り浸っていることを強調した描き方をしていた。ステラnet(6月23日付け引用)で山本淳子教授が「ドラマでは、定子が職の御曹司に入ると一条天皇はそこに入り浸っていましたが、これは創作です。天皇は貴族たちに配慮してあからさまな行動をとらず、逢瀬のかなう日を待ち続けました。それほど天皇と定子に対する世間の目は厳しかったのです」と書かれています。ドラマの描き方は創作ではなく、ためにするねつ造です、と言いたくなる。

 

ドラマの時代考証をされている倉本一宏教授はその著作『一条天皇』(吉川弘文館刊)で長徳4年正月以降の一条天皇について叙述されていることを以下に引用します。

 

「この年の叙位の後の正月十一日、頭弁の行成は特に一階を加えられたが、その際に『事に従いて以後、公に勤むること、称すべし。後輩を励まさんが為、臨時に叙する所なり』との勅語を一条から賜った(『権記』)。臣下の能力を正確に把握し、その精励に相応しい処遇を与えることは、まさに英主の条件であった」

 

「正月二十二日、一条の御願寺として造営された円教寺の落慶供養が行われ、一条は行幸を行った(『日本紀略』)」「二月十一日、詮子が後院別当を推挙してきたのに対し、一条はすでに別当は多数いるとの理由で拒絶した」

 

「二月二十三日、一条は里邸の堀川殿に下っていた元子を、懐妊中ということで輦車に乗せて、内裏に参入させている(『権記』)」

 

「この頃、道長はにわかに腰病を発し、三月三日に出家の意を奏した。一条は、病体、邪気の為す所、としてこれを許さず、・・・ 三月十二日、道長は辞表をたてまつった(『権記』)」

 

とあり、定子の名前はどこにも出てきません。道長はそれ以後も辞表を提出しては一条に押し戻されています。ドラマのような災害の話は一切出てきません。道長は体調不良だったのだ。

 

昨年(長徳三年)六月二十二日に定子を職御曹司に遷御させた一条がしばしば訪れたことはあっても、入り浸って政を顧みなくなっていた、ということはなかった、ということです。この間、六月出産予定の元子を寵愛していたという記事があります。元子の父は右大臣顕光で今回のドラマの中ではその無能振りを散々に描かれていました。娘元子が懐妊した喜びを表わす場面は一切ありませんでした。

 

今回ドラマでは長徳四(998)年を背景にしている。鴨川の洪水が問題となったが、史実に残っているのは長徳二年の閏七月十日から二十一日にかけて風水害が起こっている(倉本一宏教授著『一条天皇』吉川弘文館刊より)。長徳四年にもこれほど問題となる災害が起きたのだろうか。史実がはっきりしないことをいいことに、あることないことをないまぜにして、一条天皇と定子を貶めて道長を格好よく描こうとしたのなら、歴史ドラマでフィクションは許されると言っても、これは規範を逸脱した、と私は思う。

 

実資の批判は一条や定子だけに向けられていません。実資に言わせれば無能な道綱が自分を超越して大納言に任じられたことに対して、権力を持つ道長と朝事を専らにする詮子を批判する記事を日記『小右記』に遺しています。

 

前回伊周と隆家の処分は間違いがあったかも、という描き方をしていたのに、戻ってきた伊周は元のままで悪役の雰囲気だ。

 

 

公任は『枕草子』つながりで出ていた。『枕草子』第百一段二月晦ごろに・・・(陽明文庫本新潮古典集成より引用)に公任と清少納言とのエピソードが載っている。公任が「すこし春ある心ちこそすれ」の上の句をどうして付けられようかと、「思ひわづらひぬ」という手紙を定子後宮にもたらした。返歌先には公任の他に名のある貴族たちがいたらしい。定子は休んでいたので清少納言がどうともなれとばかりに「空寒み花に紛がえて散る雪に」と返歌して好評だったと源俊賢が顛末を語ったということが記されている。

 

このエピソードは長徳二年二月末の出来事とされている。例の長徳の変が起こった翌月で、中関白家が大変だった頃になる。二年前のことを取り上げて、楽しげに話し合っていたことになる。道長とは争わないと言っていた公任が今ごろなぜこの場に来たのか。道長に含むところがある描き方のように見えたのがよくわからなかった。伊周と仲良くなってどうするのか。わけがわかりません。

 

今回のタイトル「決意」というのは、まひろが宣孝と結婚することに決めたと言うことなのだろう。宣孝からの便りに「帰ってこい」と書かれているのを読んだときのまひろ、宣孝が山城の守になったお礼に道長に挨拶に行ったときに、為時の娘と結婚すると告げたと言った後のまひろ、そして宣孝に文を書いたときのまひろ、それぞれの表情をカメラがじっくりと捉えていた。主役にふさわしい表情だった。しかし決意の中味が伝わってこない。宣孝と結婚するに至るまひろの思いを具体的に描いていないからだ。宣孝がまひろの部屋に来たときには気持ち悪くなった。いやらしい演出だ、と思った。前回為時が宣孝と結婚すると聞いて腰を痛めるほど驚いたときの演出は、面白かった。歳の離れた二人が結ばれるのを寿ぐような演出だった。回ごとに演出家が変わるからおかしなことが起こる、としか言いようがない。

 

1.脚本=会話は練られているか、恣意的になっていないか(10→2点)2.構成・演出=的確か(10→2点)3.俳優=個々の俳優の演技力評価(10→6.14点)4.展開=関心・興味が集中したか(10→2点)5.映像表現=映像は効果的だったか(10→4点)6.音声表現=ナレーションと音楽・音響効果(10→5点)7.共感・感動=伝える力(10→2点)8.考証=時代、風俗、衣装、背景、住居などに違和感ないか(10→4点)9.歴史との整合性=史実を反映しているか(10→2点)10.ドラマの印象=見終わってよかったか(10→2点)

合計点(100-31.14点)

 

ここからはNHK大河ドラマ『光る君へ』全般について書く

 

吉高由里子と柄本佑は出番が多くて、その折々の表情の変化もよく捉えられていて、さすが主役だと思わせる演技をしている、と思う。一条天皇もよく描かれていて、塩野瑛久は期待に応えた演技を見せてくれている。その他の俳優陣で特に気になっているのは、倫子の黒木華と定子の高畑充希の描かれ方だ。直近の描かれた方は見るに忍びない。ちょい役に近い描かれ方となっている、ように見える。存在感が全くない。制作陣は大河ドラマをどのように思っているのだろう。まひろと道長だけを描けばよいドラマではないはずだ。

 

今回公任が出ていたが、前述したようにおかしな描かれ方だ。もっと相応しい場面が『枕草子』にはいっぱいある。伊周が言い出した『枕草子』を広めるためのだしに使われた感じがした。『枕草子』の跋文には、世間に流布した経緯が記されている。源経房が『枕草子』を持ち出して広まったことが記されている。NHK制作陣はどこまで『枕草子』をいい加減に扱うのだろうか。

 

 

長徳三(997)年六月二十二日に定子が脩子と共に伯父の高階明順邸より職御曹司に戻ってきた。その遷御後間もない頃のことを、『枕草子』第七十三段職の御曹司におはしますこと・・・(以下、陽明文庫本新潮古典集成より引用)に、

 

夜も昼も、殿上人の絶ゆるをりなし。上達部まで、まゐりたまふに、おぼろけに急ぐことなきは、かならずまゐりたまふ

 

殿上人や上達部たちが内裏に参内する往き帰りに清少納言たちのいる職御曹司に頻繁に立ち寄っていたことが記されている。この段では随身たちが先払いの声をかけるのを聞いて定子付きの女房たちが、誰が来たのかを言い当てる様子が記されている。清少納言が女房たちと散歩に出かけて殿上人たちと出くわして逃げ帰った後、その殿上人たちと話なんかしたとも書かれている。

 

第四十六段の職の御曹司の西面の立蔀のもとにて・・・、では清少納言と行成の面白い会話が繰り広げられている。

 

(行成)「『仲よし』なども、人にいはる。かく語らふとならば、なにか恥づる。見えなどもせよかし」とのたまふ。

(清少納言)「いみじく憎げなれば、『さあらむ人をば、え思はじ』とのたまひしによりて、え見えたてまつらぬなり」といへば、

(行成)「げに憎くもぞなる。さらばな見えそ」とて・・・

 

という会話がある。

(行成)「二人は仲がいいなんて噂もされていることだ。これほど親しく付き合うからには何の恥ずかしいことがある。(簾越しでなく)顔ぐらいは見せなさいよ」と仰る。

(清少納言)「(私は)大変不器量ですから、『そんな女は好きになれない』と仰ったのでお目にかかれずにいるのです」と言ったら

(行成)「(そこまで言うなら)本当に憎らしくもなるよ。じゃあ顔を見せなさんな」

 

ということで、二人は顔を合わせそうなときも、袖で顔を隠したりしていた。これは長徳三(997)年六月二十二日から十月十二日までのことだったらしい。そして話は長保二(1000)年三月末に飛んで、清少納言は行成に寝起きの顔を見られてしまう。それからは清少納言の部屋の簾をくぐって行成が平気で入りこんだりするようになったと彼女は書いています。

 

 

行成は蔵人頭だったので、一条天皇と定子との間の連絡役をしていた。定子への取り次ぎの窓口として清少納言を頼りにしていたと言うことです。今回行成は職御曹司にやって来て、一条天皇に叱られましたが、山本淳子教授によれば、そんなことはなかったようです。

 

中宮の元にはたくさんの女房がいて、清少納言がひと際目立っていた。倉本一宏教授にはたくさんの著作がありますが、『栄花物語』や『大鏡』には史料価値がないとしてほとんど引用されませんが、『枕草子』は『小右記』や『権記』などの日記と照合して十分に史料価値があるとして、たくさんの引用をされています。紫式部が「まな書きちらしてはべるほども・・」というのは『枕草子』には当てはまらない指摘です。二人が対面していなくては出てこない話だと私は思っています。何があったか、何かあったとしか思えません。清少納言は物事を的確に表現する達人だ、と私は思っています。紫式部は学ぶことが多かったはず、と思うのが自然で、清少納言を間違いなく尊敬していた、と私は確信しています。

 

だからこそ、清少納言の描き方も、定子の描き方も気に入らないのです。定子には二人(三人?)の妹がいていずれも悲運の死を遂げます。ドラマ『光る君へ』はこの二人もなき者にしてしまいそうです。もはや歴史ドラマの名に値しないのではないか、と憂慮しています。