前回欠落分の追記と、『光る君へ』第19回を視聴して | よどの流れ者のブログ

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『源氏物語』『紫式部日記』『紫式部集』の著作者 紫式部について考えたことを書きます。 田川寿美のファンです。

第18回放映でのいくつかの場面に対してひと言もふれなかったので、追記します。三つあります。

 

清少納言が中宮定子からいただいたお菓子のお裾分だと言ってまひろに会いに来た。次の関白は誰になるのかという政治向きの話が主だった。中宮定子が螺鈿細工の厨子を要望したら、道長が贅沢は許さないと言ったとか。後年権力を盤石とした道長が出家して居宅の土御門邸の隣に法成寺というものすごく贅沢な寺を建立するのだが、宝玉で飾り立てたその豪華さを『栄花物語』が詳しく叙述している。

 

「摂政殿(道長の長男頼通)国々までさるべき公事をばさるものにて、まづこの御堂のことを先に仕うまつるべき仰せ言たまひ・・・」というように、摂政頼通が公事よりも優先せよと指示している。道長の居宅土御門邸が火事で再建した時も、「国々の守、屋一つづつ当たりて、夜を昼に急ぎののしる」と『栄花物語』には記されている。諸国の国司に屋一棟あて担当させて、昼夜兼行の急工事をさせたということだ。この時には紫式部は亡くなっていた。だからなのか、この変わり様はどうしたことか、と思うのだが、ドラマではそこまで描くつもりはなさそうだから、制作者たちにとってはどうでもいいことなのかもしれない。

 

 

あの人、人気ないんだ、と清少納言が言った言葉を思い返しながら微笑み嚙み締めるようにまひろが呟やいていた。吉高由里子の表情はよかったが、まひろと清少納言にはこのようなどうでもいい話をしてほしくなかった。『白氏文集』などについて日ごろ思うところを語り合ってほしかった。長々と時間をかけてとは言わない。多くの視聴者にとってそんなのは面白くないのはわかるので、ほんの1、2分くらいでいい、二人の関心事はそういうことかというのがわかればいいのだ。そして二人がこれからも切磋琢磨する姿を追い続けて、男たちが権力争いに精を出し、どちらに加担するか葛藤している姿を描き出す一方で、女性たちが後世に残るすばらしい文学作品を遺すために研鑽を重ねていた姿をわかるように映し出してほしい。『枕草子』が流布されたら紫式部が清少納言にそのすばらしさを称えに会いに行くとか、『源氏物語』の写本が出たり、音読会があったりしたら、清少納言が何をおいても探し求め、会に参席するところをドラマの中で見せてほしい。いい人が主人公の大河ドラマで、権力争いやソウルメイトの話をするのならいつの時代でもいいのだ。一条天皇の時代は唯一無二だ。道長がいたからではない。道長は反面教師としての重要な役割を「よく」したかもしれないが、清少納言と紫式部は時代と社会と人をよく観察して、よく表現するすばらしい能力を持っていたから、唯一無二の時代となったのだ。

 

倫子と母穆子が右大臣となった道長の話をうれしそうに話していた。右大臣になったことを道長が「不承知、不承知・・」だと言う、と言い合っていたのは、さすがにこの場面はなかったが道長は権力に執着しないすごくいい人だったんだ、と思い込まそうという魂胆が見え見えでおもしろかった。詮子に「次はお前よ」と言われた道長が「関白になりたいと思わぬ」と答えたが、柄本佑の眼差しには「政治はきれい事では済まない」という覚めた目で見ているような感じがした。さすがだと思った。柄本佑だけでなく、他の俳優もみな、台詞のない時の表情がすごくいい。

 

 

すれ違いで終わったラストシーン。これはなんだ、と思った。一般的に言えばドラマでは、赤い糸で結ばれた二人は必ず運命的な出会いをするように描かれるのは常道で、そのことをとやかく言うつもりはさらさらない。あの荒ら屋だ、夜だ、乙丸や百舌彦がそれぞれに付き従っているはずだ。待っていなくてはならない二人の苦労を思いやってほしい。そうすればこの場面はもう少し現実感が出たのではないか。まさかまひろが一人で、ということはないだろう。あのときの破れた天井から差し込んだ月の光は美しかった。しかし、考えれば二人にふさわしいもっと美しい場所を思いつくことができたはずだ、とずっと思い続けている。何も話さずに今回は終わったが、次回冒頭にこの続きがあるのだろうか。「でも今語る言葉は何もない」とまひろが心の内で呟いたが、いつか語る時があるのだろうか。その時が来るとは、想像もできないし、期待する気も起きない。主人公同士ソウルメイトの二人だから、このあたりで一度くらい遭遇させておかなくてはという制作者側の辻褄合わせでしかない、そのような印象を受けた邂逅だった。

 

ここから第19回の感想です。

 

一条天皇が道長に「関白になりたいか」と問いかけた。「なりたくない」と道長は答えた。いきなりおかしな話ではじまった。『大鏡』では「摂政・関白すべきものならば、この矢あたれ」と道長は、「この私が将来、摂政・関白になるのが当然ならば、この矢当れ」と言ったことになっている。その時、伊周は何も言っていない。先に道長が「道長が家より帝・后立ちたまふべきものならば、この矢あたれ」と言って的のど真ん中に当てたので伊周は圧倒されていたのだ。伊周など道長の相手ではないと示したところだ。道長を権力欲のない善き人に描くのなら、他にもいっぱい考えつけるはず、『大鏡』の記述が正確とは到底言えないにしても、弓の競射のエピソードを敢えて曲げて描いたのだから、今回もそのことは知っていて敢えて「なりたくない」と言わせて、またねじ曲げたのだ。情けない制作態度としかいいようがない。だからなのか、この時の柄本佑は冴えない表情をしていた。

 

 

伊周と隆家の描き方がひどすぎる。ドラマとして面白く見られない。ここまで貶める意図はなんだろう。誰もがちょっと考えれば思いつける悪役の台詞であり、所作だ。ただただ視聴者に憎たらしく思わせる描き方だ。勧善懲悪の、水戸黄門などに出てくる悪役よりも考えなしの振る舞いだ。

 

その一方で道長はいい人と思われづくしの場面ばかりだ。柄本佑はいつも、その時その時の表情をうまく見せると思っているのだが、今回は褒め殺しに辟易する柄本佑を感じた。ただ一度、為時が赤色の服装で従五位下を授かった感謝を述べに来た時の柄本佑の表情は、まひろを想う様子が見えてよかった。

 

俊賢は右大臣道長に従って能力を発揮し出したように描かれた。前回俊賢と明子が交わした会話の無意味さがよぎった。二人が冗談を言い合ったようには見えなかった。俊賢は褒めるところのある男なのだ。お預けを食った斉信も反感を抱いていない。妹の忯子が花山天皇の皇子を産んでいれば欲を出したかもしれない人物だ。斉信は道長と従兄弟同士だ。道長寄りの姿勢を示していくことだろう。行成が俊賢の後を継いで蔵人頭となった。行成はものすごく喜んだという話を聞いたことがある。今まで道長寄り一辺倒だけの描き方だったので、彼の喜ぶ姿が見たかった。行成は『権記』という日記を遺していて、蔵人頭として存在感のある働きをする人なのだ。清少納言とも絡む有名なエピソードもある。俊賢が後任に行成を推挙したらしい。俊賢が蔵人頭となったのは道隆が推したからで、中関白家に恩義を抱いた俊賢は、困難に直面した定子のためにできるだけのことをしたとされている。

 

 

公任は道長と張り合うつもりのなくなったことを公言した。道長の父兼家が公任のことをベタ褒めしている記事が『大鏡』にある。公任が何事にもすぐれ、立派なのがうらやましいと言って、「わが子たちが彼の影法師さえ踏めそうもないのは残念」と兼家がこぼしたのに、道隆と道兼は恥ずかしくて何も言わなかったが、道長は「影法師などは踏まないが、あの面をばふまずにおくものか」と言ったとか。『大鏡』は道長を悪く言ったのでなく、本当にその言葉通りになっていらっしゃると褒め称えているのだ。公任にはもっと意地を見せてほしいし、そのように描いてほしい。父は関白頼忠で実資とは従兄弟同士で、道長とは又従兄弟だ。

 

こうして書いていくとおもしろい人物たちばかりだ。彼らはたしかに道長のために働いたようだが、そこを想像力を働かせてもっと個性豊かに描いてほしいものだ。これら身分高い人物たちを見ていると、まひろが科挙がすばらしい制度だと思ってみても、まひろがなんと言おうと、身分の壁は越えられない仕組みができあがっているのだ。道長が大きな壁になってもおかしくない。26歳の長男頼通を摂政にして自分は出家した人物なのだ。

 

まひろが一条天皇の前で、低い身分の者でも官職を得られるように提言したのは紫式部らしいとは思う。同時代に多くの物語が書かれたが『源氏物語』は突出している。突出したまま現代に至っている。紫式部は控えめで内向的な性格だったと言う人が多いが、彼女は面倒だからそうしていただけで、夫宣孝や道長、他の男たちとの歌のやり取りを見れば、男を手玉に取っていたように見える。『紫式部日記』では道長を賛美しているようで、そうでなく落としているようにもとれる。単純な書き方をしていないと言うことだ。それくらい複雑で多義的な文章家でなければ、『源氏物語』は生み出せていなかっただろう、と思う。

 

 

一条天皇の好感度は揺るがない。塩野瑛久の役作りがしっかりしているのだと思う。高畑充希もしっかり役作りして臨んだと思うが、揺らいでいるような表情が垣間見える。それにしても、まひろが二人と対面した場面だが、あのような中座をするなんて、どういう意図なのだろうか。なぜあのように描かなくてはならないのか、理解に苦しむ。

 

その前に清少納言がまひろを定子のいる所へ先導して行く途上で、まひろが画鋲を踏んだ場面、清少納言の対処の仕方をおかしく思った。清少納言が日常的に同僚女房に嫉妬され意地悪をされていたことを示したかったのだろうが、清少納言は慌てず騒がず事の説明をクールに説明した。これはないだろうと思った。まず、まひろを案じるべきだろうし、先導しているのだから自分が気をつけなくてはならない場面だったはずだ。本も演出もなっていないと思われて仕方のない描き方だったように思う。いずれも定子後宮を貶めようとする演出意図を感じたが、思い過ぎだろうか。

 

倫子と母穆子の会話も練れていない。立ったまま「大臣の妻としての心得・・」などというト書きのような台詞を穆子に言わせている。「子どものことで心配をかけないように」とかいう二人の会話を聞いていればわかることだ。他の場面でも、ト書きのような台詞やナレーションで済む台詞がなんと多いことか。筋書きや状況の説明をする台詞が多いのでドラマを見ていても水を差された感じがしばしばだ。

 

倫子が小机の上の書き物に目をとめた。行成が進めた日記を道長がはじめたらしい。『御堂関白記』だ。現存する世界最古の直筆日記で、国宝にしてユネスコ記憶遺産だ。気に入らないことは重大な出来事でも記さなかったという。定子が敦康親王を産んだことなどだ。道長の性格がよく出ているとされている。倫子のことはよく記載されていて、明子のことは圧倒的に少ない。紫式部のことを書いているとは聞いたことがない。人に知られて困るソウルメイトのことなど書くはずがない、でしょう。それでも黒木華は一生懸命だ。道長賛美だけで終わってほしくない。天国の道長も戸惑っているのではないか。

 

 

若狭に宋人70人来着した話が陣定で取り上げられた。為時の出番だ。まひろが父の背中をおした。彼女は本当に積極的だ。方違えで家に泊った男が、姉と寝ていた部屋を覗いて知らん顔して帰ったので、朝顔の花をつけて「とぼけないで」という歌を贈ったほどの気性だ。道長が小国淡路国守に決まっている為時を大国越前国に任じることになるが、私情を交えていたら問題だ。姉詮子のたっての願いを拒否したのだから。為時の申文が一条天皇の目にとまったというのもあるかもしれないが、宋人問題が目的の人事だろう。為時が従五位下になったことでまひろが道長を思ってか、うれしそうな表情を見せていたが、いい表情だった。為時のこうした人事のことで道長と紫式部がすでに関係があったとする学者もいるが無理があると思う。為時親子が越前下向するのももうすぐだ。琵琶湖を舟に乗っていくまひろの姿を早く見たいものだ。

 

いよいよ長徳の変がはじまる。中関白家凋落の事件だ。伊周が通う光子の家に他の男が通っているのを知って、弟隆家が矢を放ったのだ。通っていた男は道兼に謀られて出家した花山上皇だ。光子は兼家と出世を争った藤原為光の三女だ。名前は不詳だが、為光の光を取ってドラマのために命名されたのだろう。花山天皇は四女の儼子の方に通っていたという。為光の二女が花山天皇が愛した女御忯子だ。面影が似ていたのだろう。私はこのことに疑念を抱いている。それは後で書くことにして、放たれた矢の波紋は大きかった。演出は手際がよかったと思う。張り詰めた緊迫感と僧衣をまとった花山上皇のおかしさと伊周兄弟のやらかした感が重なって、事件への興味がいや増す。

 

1.脚本=会話は練られているか、恣意的になっていないか(10→2点)2.構成・演出=的確か(10→3点)3.俳優=個々の俳優の演技力評価(10→6.00点)4.展開=関心・興味が集中したか(10→4点)5.映像表現=映像は効果的だったか(10→7点)6.音声表現=ナレーションと音楽・音響効果(10→7点)7.共感・感動=伝える力(10→3点)8.考証=時代、風俗、衣装、背景、住居などに違和感ないか(10→5点)9.歴史との整合性=史実を反映しているか(10→2点)10.ドラマの印象=見終わってよかったか(10→3点)

合計点(100-42.00点)

 

 

ここからはNHK大河ドラマ『光る君へ』全般について書く

 

中関白家が凋落するきっかけとなった長徳の変とその後日譚に絞って書く。伊周が通っていた為光(すでに亡くなっている)の三女光子のもとに、他の男が通っていると勘違いして、弟隆家がその男めがけて矢を放ったのだが、相手が悪かった、という話だ。そんなことが起こり得るだろうか。その男が花山上皇とは知らなかったという話しだ。しかも、花山上皇が通っていたのは同じ家に住む四女の儼子だった。調べればすぐにわかることを確かめもしないで何をそんなに慌てて事に及んだのだろうか。若かったからなのか。

 

道長と伊周が権力争いをしていたことは事実だ。ドラマでは伊周があれほど人から嫌われる横着な言動をなぜ繰り返したのか、私は理解に苦しんでいる。権力への執着心が異常に強かったにしてもあまりな描き方だ。

 

長徳の変が起きた長徳二(996)年、道長は30歳、伊周は24歳だ。伊周には妹定子がいる。一条天皇の中宮だ。一条天皇17歳、定子21歳だ。道長の長女彰子はこの時まだ言葉が遅いと言っていたが、7歳くらいだ。客観的に言えば、焦るのは道長の方だ。定子に皇子が産まれてしまえば、道長には何の手立てもない。そういう時期だ。定子の後見となる伊周兄弟を失脚させ、定子が尼になるか、死んでくれれば、と思っていたのではないか。結果的にそうなったわけだ。キーマンは為光の次男斉信だ。花山天皇が愛した女御忯子、伊周が三女光子のもとに通っている。そして四女儼子がいる。みんな斉信の妹だ。誰が四女儼子を花山上皇に紹介したのだろうか。というように週刊誌の根も葉もないスキャンダル記事のようなことが頭に浮かんでくる。嫌らしいことだ、と思うがこの妄想を止められない。

 

出家した花山上皇が四女儼子のもとに通ってきても斉信には何の利益もなかったはずだ。しかし、伊周兄弟を失脚させることができれば誰が喜ぶか、誰の利益になるか。この事件が起きたときの実資の日記『小右記』には

 

道長(みちなが)殿から連絡があり、花山法皇と内大臣(ないだいじん)伊周・(ちゅう)()(ごん)隆家一派が故藤原為光(ためみつ)の邸宅前で遭遇、乱闘事件発生。院側の手下が2人殺害され、首を持ち去られた模様」
(『小右記』(ちょう)(とく)2年〈996〉正月16日)。

(ステラnet山本淳子教授掲載文より引用)

 

とある。道長は小躍りして一刻も早く主だった公卿たちに連絡したのだろう。伊周と隆家兄弟が左遷された当日に斉信は念願の参議となり公卿に列した。花山上皇は1008年に亡くなる。不思議なことに四女儼子を倫子が呼び寄せて女房とし、道長の愛人となったことが『栄花物語』と『大鏡』双方に記されている。

 

「殿(道長)よろづに思し掟てきこえたまうしほどに、御心ざしいとまめやかに思ひきこえたまふ」(殿があれこれとそのおつもりになってお世話申しあげておられるうちに、まったく真剣に情愛をお寄せ申すことになった)=小学館新編日本古典文学全集31『栄花物語』より引用。

 

「四の御方は、入道殿(道長)の俗におはしましし折の御子うみて、うせたまひにき」(四の姫君は、入道殿が、まだ在俗でいらっしゃった時の御子を産んで、お亡くなりになりました)=小学館新編日本古典文学全集34『大鏡』より引用。

 

四女儼子が道長の妾となったことを斉信たち兄弟たちは喜んだらしい。五女のことを山本淳子教授がステラネットに書いている。

 

五女の穠子も、同じころに夫を亡くして道長の次女の女房となり、儼子同様に道長の(ちょう)(あい)を受けました。

(ステラnet山本淳子教授掲載文より引用)

 

道長の次女とは三条天皇の中宮妍子のことで、産まれた子が皇子でなかったので道長はたいそう不機嫌になったと言われています。なぜこのような男を善き人として、紫式部のソウルメイトにしたドラマを作ろうと誰が思われたのでしょうか。そこが気になって、だらだらと書いてしまいました。

 

事件の真相は今となってはわからない。結果的に斉信は道長と強く結びついただけなのかもしれない。しかし、あまりにもすべてのことが、道長が願っていたであろう方向に動いた。

それは事実のようだ。