『光る君へ』第13回を視聴して | よどの流れ者のブログ

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『源氏物語』『紫式部日記』『紫式部集』の著作者 紫式部について考えたことを書きます。 田川寿美のファンです。

一条天皇が元服し、定子が入内した。定子がどのように描かれるのか、限りなく関心が高まる。初登場の高畑充希はさすがの演技だ。この時定子は数え年(以下、年齢はすべて数えで記します。若干の誤差はあるかもしれません。ご容赦ください)14歳くらい、少女らしさを宿していながら、年下の夫一条(11歳)とかくれんぼしているところに姑の詮子が訪れると、自らの立ち位置をしっかりとわきまえた対応をして、イメージしていた定子以上のものを見せてくれた。練りに練った定子像を掴んでいる気がした。一条天皇の成長が楽しみだ。

 

詮子の定子を見つめる眼が険しかった。詮子は29歳だ。さすがに大人げない言動はなく、息子一条と仲良く遊んでやってくれ、というようなことを言っていた。定子と一条の仲が親しくなるにつれて母親として複雑な思いにとらわれてくるのだろう。そういうことを思わせる吉田羊の表情だった。定子の運命は詮子が握っているかのような場面で少し怖かったが、ただならない緊張感が走っていて見応えのある吉田羊の演技だった。

 

道兼は兄道隆に負けまいと必死だ。幼い娘の入内の話をして妻に呆れられ、娘に怖がられていた。道兼役の玉置玲央は敵役を演じようと一生懸命なのは伝わってくるが、一本調子過ぎるような気がする。悪役のイメージにとらわれ過ぎなのではないか。家族団欒の場では、肩の荷を下ろした方がいいのではないか。これでは天国の道兼も浮かばれないのではないか。娘が可哀想だ、と思っている内に場面が変わってホッとした。このドラマは一つ一つの場面を短くして、興味をうまく繋いで行っているように見える反面、人物などその場をしっかりと描いていないことが多くて、中途半端感が常につきまとっている感じがする。

 

さて、主人公のまひろは今回もわけのわからないことばかりしている。18(~20)歳だから仕方ないのかもしれない。「私は私らしく自分の生まれてきた意味を探して参ります」と言うのはいいのだが、貧しい母子が理不尽に引き裂かれるのを見て、「民を一人でも二人でも救い出す」と言って、貧民たちに文字を教えようと闇雲に従者の乙丸と地面に字を書き出したのには驚いてしまった。字を習いたい少女が一人いたが、ここでなぜ会話がないのだろうか。どういう出自で、親はどう思っているのか、ほんの1分くらい描けば、まひろと少女、そして視聴者との関係が親しくなり、応援する気持も自然とわいてくると思うのだが、あまりにもお座なりすぎる描き方だ。

 

まひろが少女を家に連れてきて文字を教えているのが気に入らない乳母のいとの気持も分るようでよく分らない。前々回あたりでいとが自らの行く末の不安からまひろを頼りにしていたはずなのに、何の役にも立たないことをさせてと為時に不満を言うとは、私には理解しがたい。小さなことかもしれないが、人が普通に持っている人情の機微をこのドラマは全く描けていないように思う。

 

道長が重要な公卿の会議に出て(道長は25歳)、兄道隆が発言したことに反対意見を述べた。横暴な国司を訴える民の訴状を審議するか否かについてだった。この場面では実資が道長に好感を抱いた様子が描かれ、両者が筋を通しながらも良好な関係を結んでいく将来が予想されるところだ。ここでは、伏線はしっかりと描かれていた。

 

 

摂政となり孫娘の定子が入内して満願成就した兼家が耄碌し出した。道隆が妻貴子に心積もりせよと告げたら、貴子は昔からできていると答えた。貴子が儀同三司母という名で百人一首に遺している歌を思い出した。

 

忘れじの ゆくすゑまでは かたければ けふをかぎりの いのちともがな

 

訳=忘れまいとおっしゃる、その遠い将来までは頼みにし難いから、今日を限りに死んでしまいたいものでございます(京都書房『評解新小倉百人一首』より引用)

 

道隆が貴子のもとに通い初めた頃の歌だ。この時代の女性がおかれていたあり様が反映されている歌だ。貴子にとって道隆は頼りがいがあったということになる。しかし、定子の母でもある貴子は夫道隆の死後、想像だにしなかった一族の没落という憂き目に遭う。その最中に子どもたちを遺して悲憤のうちに亡くなるのだ。この歌が皮肉にも象徴的だったとも思えるのが悲しい。

 

この後で道長が帰宅早々倫子に「父がおかしい」と告げている。三兄弟共に妻との会話をよくしているのが目立った。通い婚などが一般的で、女系家族社会とも言える平安時代はそういう時代だったのかもしれないと思わせる描き方だ。明子が子を宿したと言ったのに、「こんな時にも笑顔がないな」と道長が言ったのがおかしかった。「そういうあなたも、笑顔を見せたことがありませんね」と明子には返してほしかったところだ。

 

倫子(27歳)が求職活動をしていると言う噂を聞いてまひろを招いたのはいいが、道長が秘匿していた場所から探し出した女文字だと言う漢詩の文をまひろに見せたのは、道長とまひろとの関係が倫子に知られることになる予兆なのだろう。倫子は明子ならともかく、身分に差のあるまひろなど相手と思わず、今回のように知っても知らないふりをするのではないか、と思わせる。

 

倫子が道長の持ち物を探って、という行動を描くという着眼がどこからもたらされたものなのか。倫子と道長との関係は『源氏物語』では葵の上と光源氏に似てるかな、と思ったことがある。倫子は年上だし、入内が当たり前だったのに先行き不明の男に嫁ぐというところだ。何よりもプライドが高い。しかし『光る君へ』は道長を尻に敷くようなドラマであってはならないのだ。

 

 

一方で、夫の女関係を疑うというところは、光源氏の息子夕霧と恋愛の末に結ばれた雲居の雁を思わせるところもある。仕事熱心で妻一筋、家族思いの夕霧が亡き友人の寡婦落葉の宮を慰問している内に思いを寄せるようになったためだ。雲居雁は子だくさんで、倫子も6人の子の母になる。倉本一宏教授は道長が記した日記、『御堂関白記』での倫子の記述が353回で明子の方は36回だそうだ。倫子が嫡妻だから圧倒的に多くて当たり前のようだが、道長は倫子のいる土御門第で起居して日記もそこに置いていたので、倫子に盗み読まれて困るようなことは書かなかったのではないかと仰っています。

 

まひろの突拍子もない求職活動は、今回の最後の場面、道長と倫子が住む土御門第で道長とまひろとが4年ぶりに邂逅する場面へと導くためにとってつけたエピソードのような気がした。求職のことは顔の広そうな宣孝に頼むとか、ありそうな設定はいくつかあったと思うが、それではまひろが土御門邸には行くことにならない。とにかく土御門邸にまひろを行かせればいい、なんと言われてもいい、正面突破だと言うようなまひろの求職活動の描き方だった。門前払いの語源ともなったかのようなまひろの求職活動を紫式部が観たら、さすがに笑うしかないのではないか、と想像してみた。

 

脚本=会話は練られているか、恣意的になっていないか(10→3点)2.構成・演出=的確か(10→3点)3.俳優=個々の俳優の演技力評価(10→6.14点)4.展開=関心・興味が集中したか(10→4点)5.映像表現=映像は効果的だったか(10→6点)6.音声表現=ナレーションと音楽・音響効果(10→7点)7.共感・感動=伝える力(10→3点)8.考証=時代、風俗、衣装、背景、住居などに違和感ないか(10→5点)9.歴史との整合性=史実を反映しているか(10→3点)10.ドラマの印象=見終わってよかったか(10→3点)

合計点(100-43.14点) 

 

ここからはNHK大河ドラマ『光る君へ』全般について書く。

 

ドラマの感想を投稿するサイトがあり、「ネタバレ」という言葉が出てくる。ドラマの結末などが記されていることを示す言葉だ。『光る君へ』は歴史ドラマなので、一条天皇、定子、清少納言、紫式部、道長たちの行く末が書物などでよく知られていることがある。これを言うのもネタバレか、と思ったが、まあ、史実に即して話すのはネタバレではないだろう、と思った。ドラマの結末はよくわからないし、ドラマの中の展開は史実とかなり違っているのだから。

 

 

本で読んだ小説がドラマ化や映画化されることが往々にしてあるが、期待外れに終わることが多い。人それぞれに好みがあるから、評価は一様ではないが、小説以上によかったというのはあまり聞かない。『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』なんかいい例だ。最近では村上春樹の『ノルウェイの森』もそうだった。1960年代にリバイバル上映された『風と共に去りぬ』を観たときは、大いに感動した。小説を読んでいなかったせいかもしれない。読んだ人の感想では、映画はつまらなかったという人が多いそうだ。当時の映画館は入れ替え制でなく指定席もなかったので、立ち見で観た。立ち見スペースも満員の盛況だった。今も余韻が残っているほどすばらしい映画だったという印象が刻まれているので、あらためて小説を読む気になれない。

 

 

黒澤明の『羅生門』は、原作と比べようがない。雨の羅生門のシーンや藪の中の出来事の処理など、映画作りがうまいとしか言いようがない。しかし原作の芥川龍之介の評価は、これからは世界でも映画に匹敵するかそれを上回るのではないかと思っている。彼の短篇は折に触れて読み返しているが、いつ何を読んでも切り口が鋭く感じられ、文章もすっと入ってきて、確かなものがしかと伝わってくる希有な作家だ。

 

要するに映像と文学とは比べようがない、というのが正しいように思われる。音楽と絵画とどちらが優れているか、などジャンルが違うものを比べて、どちらが優れているかなど論じても全く意味がないということだ。

 

ドラマではこれから、一条天皇と定子の愛が育まれ、兄たちが亡くなったあとの道長が姉詮子の推しもあって権力を獲得していくことになる。家が没落した定子は道長から散々嫌がらせを受けることになると、この時代の歴史をある程度知っているつもりの私はそのように思っている。しかし、歴史の解釈は一様ではない。また、歴史ドラマである『光る君へ』への評価もその歴史を知っていると思っている者と、ほとんど知らない者とでは当然違ってきて当たり前だと思う。知ったかぶりして簡単に揶揄する非は避けなくてはならない。知ると知らないとでは大きな違いはあると思うが、知らなくても面白いものは面白いと言って何が悪い、ということだ。新たな知見を常に受け入れる心構えだけは持ちたいものだと思う。

 

ひらがなが誕生して、思ったこと、話したいことをそのまま文章にできる時代が到来した平安時代の中でも、ひらがな=女流文学の花開いた一条朝の時代は特別な時代だったと私は思っている。『竹取物語』や『伊勢物語』などを紫式部は深く読み込んで、友だちと意見を交換したりしていたと思われる。だからこその『源氏物語』だと思う。そのような紫式部をこそ腰を据えて描いてほしい。紫式部が主人公のドラマなのだから。